森政稔(2008)『変貌する民主主義』ちくま新書

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

本書では現代の一見退屈に見える民主主義の実際の背後に、じつはそれを変える思想の次元で大きな変化があり、いつのまにか民主主義の思想的前提のうち、かなりのものが入れ替わったことを示そうとしてきた。民主主義思想は、反民主主義に対する闘争という面を決して失ったわけではないとしても、重点が変化し、民主主義を受け入れる多様な人々のあいだの複雑な共存ルールへとしだいに変化してきている、というのが本書の見方である。社会は複雑化し、紛争は多発し、状況は見通しがたく、このような変化が人類に幸福をもたらすかどうか、一概にいえないが、このような変化をなかったものとして後戻りすることはできないという意味では、この過程は不可逆的な進化といえるだろう*1


東大総文の森政稔の著作。あんまり著作が多い人ではないらしく、正直詳しい素性は知らない(ボム)。

本書は1960〜1970年代にかけての全世界的な反権威主義的抵抗運動をメルクマールと定めて、民主主義やその背景にある社会的、経済的、文化的背景がどのように変貌しつつあるのかを、自由主義と民主主義の関係、多数と差異の問題、ナショナリズムポピュリズム、主体性の問題、という4つの視点から分析するものである。

まず第一章では、レッセフェール自由主義の結果としての悲惨な状況に対処するために登場した社会民主主義が1960〜1970年代の反権威主義的な運動と新自由主義との双方から攻撃を受けて衰退するまでの自由主義と民主主義との関係を素描し、そのようにして台頭した新自由主義が哲学的根拠としたハイエクの思想がたんに市場経済を主張するだけでなく、「法の一般性」原理に基づく市場の自生的秩序という、首尾一貫した秩序の思考を内包していることを指摘した上で、さらにそのハイエクの思考に対しても批判的な分析を加えている。続く第二章では、近代の国民国家体制が「国民」というフィクションを想像することによって圧殺してきた差異やアイデンティティの多様性が冷戦崩壊とともに表面化しつつある現状を指摘した上で、そのようなアイデンティティの政治、差異の政治が陥りがちな本質主義的思考について検討を加えている。第三章では、グローバル化の進展にともなって左右双方ともでナショナリズム的主張が強まっている現状を念頭に置きながら民主主義がナショナリズムやその結果としての戦争と歴史的に親密な関係を結んで来た経緯を検討した上で、現在のナショナリズムの高揚に多大な影響を与えているポピュリズムが政治を単なるゲームと捉えるシニカルな立場と単純な善悪二元論を構築することで悪をたたき続けることを志向するモラリズム的な立場との奇妙な相互作用の中で増幅されている図式を描いている。最後に第四書では、近代国民国家体制の下で自明のものと思われていた主体性を前提とする民主主義論がグローバル化が進展する現代においてはもはや十分に政治的な責任概念を構築し得るものではなくなっていることを指摘した上で、新自由主義的風潮の中で登場してきたガヴァナンス論に基づくアカウンタビリティ的思考の利点と限界を批判的に検討し、本書を締めくくっている。

本書の特徴を挙げるとするならば、1960年代前後の反権威主義的運動をメルクマールとして現代の民主主義を分析しようとするその主題のレアさがあるだろう。1960年代の運動の重要性は他のあまたの著作の中で指摘されておりもはや多言を要しないが、その重要性を民主主義論と結び付けて論じるものは国内では管見の限り、あまり見受けられない。また、本書は結論を一つに収斂させるのではなく、現代における民主主義が内包するさまざまな問題点を読者に投げかけるような構成になっているため、現代の民主主義そのものやその背景としての諸条件の変容を検討する上でのとっかかりとして有用であろう。

ただし、そのように手広くテーマを扱っているせいか、議論がかなり雑になっている部分が見受けられる。特に第四章については、「自己への不安」といった時の「自己」という言葉が個々人とそれ以外の法人の双方に対して用いられたり、アカウンタビリティ的思考を免れている存在としての「国家」のさす内容が不明確(「日本」といった漠然としたイメージを指しているか、具体的な統治機構まで含めるのか。もし後者であれば、アカウンタビリティ的思考を免れているという著者の分析には甚だ疑問が残るし、そうである以上「自己への不安」の拠り所となり得るはずがない。前者であるとしても、もう少し詳細な説明がなければ説得力は薄い)であったりと、手抜き工事のような議論が展開されている。その意味で、本書を読解するに当たっては他の著作(たとえば、仲正昌樹NHKブックスから出している『集中講義!日本の現代思想』『集中講義!アメリ現代思想』など)で補足するなどの注意深さが必要かも知れない。

*1:本書261頁。

サラ・ミルズ(2006)『ミシェル・フーコー』酒井隆史訳,青土社

ミシェル・フーコー (シリーズ現代思想ガイドブック)

ミシェル・フーコー (シリーズ現代思想ガイドブック)

※しばらく放ってましたが、久しぶりの更新です。また、随時更新していきますんでよろしくお願いします。

要するに、出来事やテキストについてフーコー的な分析を活用するとき、採用することのできる理論的構えはたくさんある。こうした特定の立場のすべてが有益であるわけではないだろうが、このようにしてそれらを切り出すことによって、フーコーの発想を出来事やテキストの分析にあてはめることができるようになる。……本質的なことは、あなたがたがフーコーの読解にフーコーの方法を用いることだ。フーコーの価値について懐疑せよ。フーコーによるしばしば大胆で、しかし、しばしば不当な一般化を受け入れてはならない、そして状況の「真理」をフーコーが語っていると想定してはならない*1


英米圏の思想入門書シリーズを和訳した青土社の「現代思想ガイドブックシリーズ」のうちの一冊。このブログでも書評を書いた『自由論 現在性の系譜学』の著者である酒井隆史が訳をしており、たまにはフーコーの入門書も良いだろうとなんとなく読んでみた(笑)。

本書の第一章は入門書らしくフーコーの生い立ちを記述することから始まり、その後に彼の思考の変遷を「考古学」「1960年代」「系譜学」という3つの指標を用いて説明している。すなわち、言説内部の規則の分析(どの言表が拾い上げられどの言表が捨てられるか、ある言表が他の言表に変換されるのはいかにしてか、どの言表とどの言表は同じとみなされ、どの言表とどの言表は違うとみなされるのか、等)としての「考古学」に探究の重きを置いていたフーコーが、1960年代を通して全世界的に同時多発した既存秩序に対する反権威主義的運動に直面する中で、「考古学」において見出された言説形成体の存在諸条件を貫く権力の諸関係の分析、つまり「系譜学」へと関心を移行させていったというわけである。

続く二章から六章まではフーコー思想のキーワードが検討されている。第二章「権力と制度」では、フーコーが国家の統治機構等の「制度」と結びつきながら抑圧的なものとして作動する「権力」という考え方に対抗しながら国家や制度に還元されることのない諸々の諸関係を貫く積極的で生産的な権力概念を提起し、そのことによって権力に外在する抵抗といった捉え方もまた大きな修正を迫られたことを詳説している。第三章「言説」では、フーコー独特の言説分析に焦点を絞りながら、諸言表の配分や流通を規則としての言説とそれらをめぐる諸概念――エピステーメー、古文書体、言説形成体など――を整理している。第四章「権力/知」では、再び権力というキーワードを取り上げて通常絶対的なものとして捉えられている真理が、フーコー思想においては権力の諸関係に貫かれた知により産出される相対的なものに過ぎないことを説明している。残りの第五、六章では、フーコーがその晩年に強い関心を寄せた「セクシャリティ」や「主体」といった主題に焦点を当てることで、主体を本質的なものとして捉える近代思想的発想を徹底的に拒否しながら、諸言説や知、制度の連関としての権力の戦略に規定されるそのような主体概念の存立条件を問いに伏し続けた彼の姿勢を記述している。

最後に「フーコー以降」の部分では、著者なりのフーコーの活用方法やその著作の問題点を指摘して(「あとがき」で酒井隆史が指摘するように、ここでの著者の提起はポストコロニアルジェンダー関係の言説分析に関することに偏っているように思われる)本書を締めくくっている。

「あとがき」で酒井隆史も述べているが、本書はフーコーの入門書としてはめずらしく彼の思想のキー概念を一つ一つ説明するという形態を取っており、その点ではフーコーを一通りは読んでいる自分としても良い整理になった。特に、他の入門書よりも言説分析の説明に力が入っているため、前期フーコーの「考古学」的分析と権力分析に関わる後期フーコーの「系譜学」的分析とのつながりが良く意識できる本だと思う。

反面、本書は構成の面でやや難がある本かも知れない。たとえば、諸々の言説や知、制度の連関からなる権力の戦略に貫かれる形でセクシャリティ、あるいは主体は構成されるのだといった形で同様の、あるいは密接に結びついた話題を扱っている第五章と第六章を分ける意味は何なのだろうか。まあ、単純に前半で扱えなかった『狂気の歴史』の話を挿入したかったからとか、そういった理由なのかも知れないが、それならそれでもう少し違った構成の仕方があったように思う。また、最後の「フーコー以降」の部分は結局のところ本文の繰り返しになっているだけなので、あまり必要性を感じない。

ただ、先にも述べたように、フーコー思想における諸概念をそれぞれそれなりの丁寧さで解説している本というのはそれほど多くはないと思うので、時系列で整理している入門書で僕が一番分かりやすいと思っている中山元の『フーコー入門』と合わせて読めば、それだけでフーコーの著作に挑戦できるだけの知的体力を得られるのではないかと思う。その意味で、フーコーに興味を持っている人にとっては一読の価値はあるのではなかろうか。

*1:本書206頁。

萱野稔人(2005)『国家とはなにか』以文社

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

雇用のフレキシブル化がさけばれ、失業者は――やむをえないものとして――なかば放置される。財政難または自己責任という理由のもとで社会保障制度は縮小されていく。工場の海外移転にともない国内市場は空洞化をはじめた。冷戦状態も解消し、革命の恐れはほとんどない。社会的矛盾を緩和するクッションであった、生存権社会権は急速に形骸化しつつある・・・・・・。ドゥルーズ=ガタリによれば、こうした動向は全体主義に固有のものだ。・・・・・・つまり、全体主義的実現モデルにおいては、資本の価値維持や外的部門の均衡にかかわる公理が保持され、住民の生存条件や権利にかかわる公理は廃棄される。・・・・・・こうした公理の除去によって、国内市場は崩壊し、社会的矛盾は増大する。そして、そこから生じる撹乱的な諸要素を制圧するために、国家はより強権的な手段の行使をいとなわないだろう。公理の縮減の埋め合わせに、国家の暴力性が全面に出てくるのだ*1

『ロスジェネ』や『VOL』、『思想地図』といった新興雑誌にも頻繁に寄稿するなど、積極的な活動が目立つ若手政治哲学研究者萱野稔人の著作。本書は、タイトルになっている「国家とはなにか」という問いを、法制度や組織機構の観点から読み解こうとする経験科学的アプローチに拠らずして、概念としての国家を捉える哲学的アプローチの観点から考察することを、ウェーバーやシュミット、フーコー、バリバール、ドゥルーズといった思想家の議論に依拠しつつ試みている。

まず、前半の1〜3章では、マックス・ウェーバーの「国家とはある一定領域において正当な物理的暴力を独占する人間共同体である」という定義より出発して、富の我有化という目的のために、人々の行動を構造化し操作する権力を用いながら暴力を独占・組織化し、そのようにして肥大化した暴力がさらなる富の我有化や権力の強化を促進するという、暴力の循環論的運動を国家の本質として描いている。

続く後半の5〜6章では、国家が現在のあり方に至るまでの系譜を考察することで、一定領域の暴力を独占・組織化して成立するがゆえに領土の掌握を重要視する主権国家が、君主という特定の人格に依存した暴力の組織化が孕む不安定性を打破するために、暴力の担い手をナショナリズムによって練り上げられた「国民」に民主化することによって国民国家へと変貌する過程を明らかにし、それら一連の経緯が資本の流れを円滑にするための「公理系」を国家が実現しようとする営みに相関することを指摘している。

以上の論の中間にある4章では、国民国家批判や国家=フィクション論の誤謬を指摘することで、本書の考察が、国民国家を国家のプロトタイプとして自明視しない視点、あるいは国家の暴力をイデオロギー装置や言説から派生する虚構のものに還元しない視点からのものであることを示して、本書の依拠する方法論を明らかにしている。

本書の特出すべき点は、先行研究に対する批判的視座の鋭さだろう。4章における国民国家批判・国民=フィクション論に対する批判はもとい、たとえばアガンベンの生政治論に対する批判などは、フーコーアガンベンの双方を読んでいる僕としてもなるほどと頷かされてしまった程である(ボム)*2

また、全体的にくどいくらいの説明がなされており、それなりに難解な思想の議論を扱っている割には分かりやすかったように思う。特に、後半の主権国家から国民国家への系譜を辿っている部分は、社会科学の基本とも言うべき教科書的な内容なので、法学部や経済学部に入学したての1年生が頭を抱えながら(笑)読む本としては結構良いんじゃないかろうか。冒頭に挙げた以外にも、結構な数の思想家の議論が引用されるので、ブックガイドとしての役割も果たしうるだろう。

しかし、そうした教科書的、ブックガイド的な性格が強いがゆえに、諸々の思想や議論をただだらだらと紹介しているだけのようにも読め(というか、萱野の議論はそれらに乗っかり過ぎな感がある)、いまいち萱野自身のオリジナリティが伝わって来ない。僕は、冒頭の引用にも挙げた、現代の国家のあり方を「全体主義体制」という言葉で表すドゥルーズの議論は面白いと思ったが、本書で引用される議論や思想を面白いと感じることと、本書を面白いと感じることはまた別の話である。その点で若干の物足りなさを感じた。

ともあれ、従来の潮流とは趣きを異にしながら、フィジカルな視点から国家の暴力を捉えなおそうとした本書が与える視座は、決して意義の小さなものではないと言えるだろう。

*1:本書259-261頁より。ただし、傍点が打たれている部分はイタリック体にした。

*2:萱野は、古代ギリシャ以来の主権権力にも「剥き出しの生」に対する政治、すなわち生政治の端緒を見出すことができるとするアガンベンの議論は、前近代の死なせるものとしての主権権力から生きさせるものとしての生-権力への変容を浮き立たせようとするフーコーの議論の系譜学的性質を殺してしまうものとして強く批判している。というのも、萱野によれば、アガンベンの提示する生政治は、フーコー自身、専制君主制の下で展開される「華々しい身体刑」として『監獄の誕生』の中で既に述べているからだ。本書235頁参照。

フーコーの生権力とネグリの生権力


ネグリは〈生権力〉と〈生政治〉という近年の鍵概念をフーコーに負っている。しかしその事実を超えたところで、これら二概念の意味がネグリフーコーで大きく異なっていることはそれほど知られていない」*1と指摘する箱田徹は、両者の生権力論の違いについて2つほど言及している。

まず、一つ目について、箱田は次のように述べている。

フーコーによれば〈生政治〉とは、ある領域(ウェストファリア体制以後の主権国家とほぼ同義)の内部で生活する人々を〈住民〉(=人口)として集合的に把握した上で、そこで生じる健康・衛星・出生率・寿命・人種といった生物学的・病理学的現象を問題化し、それに応じる国家の統治理性のあり方を指す。・・・・・・したがってこの意味での生政治は、ネグリが論じる、ポスト・フォーディズム体制下での労働時間と非労働時間の区別の消失、傾向としての非物質的労働の台頭といった事柄は含まれない。フーコーの生政治とはあくまでポリス、すなわち行政管理にかかわるものであって、政治の概念ではない*2

ここで箱田が何を持って「政治の概念ではない」と言っているかについては議論の余地があるが、とりあえずその点は問わない。彼によれば、フーコーの生権力は生政治とほぼ同義で使われていて、その意味するところはある領域の住民(近代において、それは国民国家における国民とされた)の生を増強する行政管理のための統治テクノロジーであった*3。それは、ドゥルーズ的な管理社会論の観点から規律訓練権力の全面化した管理社会の権力のあり方を生権力と呼んだり、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行にともなって生じた労働形態の変容を生政治に含意させたりするネグリの生権力論とは大きく異なっているというわけだ。

2つ目の違いについては――こちらの方がより重要であるが――次のように述べている。

フーコーにとって生政治・安全・人口といった概念群は、何よりもまず、法を軸とした主権型権力から、ノルムを軸とした規律訓練・安全型の権力への移行を示すものであった。・・・・・・他方でネグリにとって、主権は生権力の側に見出されるものであり、その上で生権力と生政治の本質的な非対称性が把握されている。すなわち生権力とはグローバルな形で行使される主権の〈帝国〉的形態であり、生政治とはそこで営まれるマルチチュードの政治的かつ経済的な生産活動を指す。この枠組の下で、ネグリは〈帝国〉とマルチチュードとの間の、あるいは資本とプロレタリアートとの間の今日的な敵対性の争点が、生そのものであることを描き出す*4

先に、フーコーの生権力論においては生権力と生政治はほぼ同義のものとして扱われていたと述べた。しかも、箱田が指摘するように、そこでは生権力は主権権力と異なる権力のあり方として捉えられるものであった。ところが、ネグリの生権力論においては主権論をも含意する形で両者を異なるものとして扱っていると箱田は指摘する。すなわち、生権力とは社会に対して超越的に命令を下しつつ搾取を行う〈帝国〉的主権であり、生政治とは社会に内在しながらネットワーク的な労働を通して社会的連帯を構築するマルチチュードの営みであるというのだ。

このような「生権力・〈帝国〉的主権/生政治・マルチチュード」という枠組は、ネグリ自身も次のように述べて明確に示している*5

生権力(biopower)と生政治的生産(biopolitical production)はともに社会的生全体とかかわる――だからこそ、バイオという共通の接頭語がついているわけだ――が、そのかかわり方はまったく違う。生権力は主権的権威として社会の上に超越的にそびえ立ち、命令を下す。これに対して生政治的生産は社会に内在し、労働の協働形態をとおしてさまざまな社会的関係や社会的形態を創出する*6

以上が箱田が指摘する2つの差異であるが、2つ目のものについてはネグリが構築せんとするマルチチュードという主体性の概念とも関わるため、もう少し掘り下げて見ることにしよう。

そもそも、ネグリが上記のようにフーコーの生権力論を大幅に変更する形で論を組み立てたのは、フーコーに対してある限界を感じていたからに他ならない。これについて彼は次のように述べている。

フーコーは――彼が社会の生政治的な地平を強力な仕方で把握し、それを内在性の領野として規定したときでさえ――その研究を最初から領導していた構造主義的認識論からみずからの思考を引き離すことに成功したとは思えないのだ。言いかえるなら、システムの原動力やその運動がもたらす創造的な時間性、ひいては文化的・社会的生産の存在論的実体を実質的に犠牲にしてしまうような方法の再発明のことを意味している。・・・・・・フーコーが最終的に把握し損ねたもの、それは、生政治的な社会における生産の真の動態にほかならない*7

ネグリは、「権力の対象はいまや生そのものである」というフーコーの指摘に対して、管理社会における新たな権力のパラダイムが生(身体)そのものを掛け金とするものであることを的確に捉えている点に大きな意義を見出している。しかし、ネグリに言わせれば、フーコーの生権力論はせっかく権力の掛け金として見出された生を受動的なものと見なしがちであり(このような認識をネグリは「構造主義的認識論」と呼んでいるのであろう)、それが持つ創造性や潜勢力を見落としてしまうという陥穽にはまっている。要するに、フーコーの生権力論からは主体性を導くことができないというわけだ(このようなネグリフーコー批判が妥当するかどうかは相当の議論の余地があるように思われるが、ともかくそのようにネグリフーコーを評価している)。

ここにおいて、先の箱田の2つ目の指摘の中の「生権力・〈帝国〉的主権/生政治・マルチチュード」の枠組が要請される。ネグリは権力の掛け金としての生の創造性や潜勢力を、生権力・〈帝国〉的主権に対して対抗させながら、生政治・マルチチュードという言葉でもって表すことによって、フーコーが見落とした主体性を強調しようとしたのである。

以上のように、近現代の統治のあり方を審らかにしようとしたフーコーの生権力論と、主体性を強調せんがためにフーコーの論を大きく改変することで練られたネグリの生権力論とでは、その目的も性質も大きく異なっている。そうである以上、〈帝国〉時代においてフーコーの生権力論そのものをどのように論じるかを考える試みは非常に重要なものであると言えるだろう。

*1:箱田徹(2008)「生政治から統治と啓蒙へ」『現代思想』第36巻第5号,173-179頁。

*2:箱田,174頁。

*3:フーコーが生権力を定式化した『知への意志』においては、生政治は生物学的プロセスを支える身体を中心に据える調整・管理のテクノロジーとして生権力の一つの極と捉えられていた(ミシェル・フーコー(1986)『知への意志』渡辺守章訳,新潮社,176頁)。ところが、この後の生権力を主題に据えたコレージュ・ド・フランス講義である『安全・領土・統治』(78年講義)、『生政治の誕生』(79年講義)では、両者の区別はほとんどされなくなったという。

*4:箱田,175頁。

*5:誤解がないように言っておくと、この枠組は二項対立図式ではない。ネグリ自身が〈帝国〉をマルチチュードの「寄生体」と表現するように、両者の関係は表裏一体的であると考えるのが正当である。

*6:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2004)『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』幾島幸子訳,NHKブックス,167頁。

*7:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社,45-47頁。

齋藤純一(2008)『政治と複数性 民主的な公共性にむけて』岩波書店

政治と複数性―民主的な公共性にむけて

政治と複数性―民主的な公共性にむけて

私は、政治的生活にこそ生の本質的な意味があるという、多分にアリストテレス的共和主義の伝統に沿った、彼女の一方の議論は支持しないが、人びとがその意に反して政治的生活から排除されることは不正義とみなされるべきであるという―一般の解釈では必ずしも重視されているとはいえない―彼女の議論を支持する。・・・・・・自らの言葉や行為において互いに現れること、共有される世界が今後いかにあるべきかについて意見を交わすこと。この政治的自由を相互に保障し合うような関係性を創出し、維持していくことが、民主的名公共性の条件であるという理解を私はアーレントと共有している*1

思考のフロンティアシリーズにおける『公共性』や『自由』にでお馴染みの齋藤純一の近著。去年の年末にはFoucaultlianの通う大学の院の集中講義にもいらっしゃっていた(因みに、Foucaultlianも学部生のくせに参加してやたらと出しゃばってました(苦笑))。その最終日の書評会において、書評の対象となったのも本書である。

本書は、一部を除いて、1990年代後半から現在に至るまでの著者の論稿を一冊にまとめた政治論集であり、一貫した流れのようなものがあるわけではない。しかしながら、それぞれの論稿において通底しているのは、ナショナリズムエスノセントリズムアイデンティティの政治といった、個々人のアイデンティティを同質性に還元する傾向のある「表象の政治」に抗しながら、個々人がその意見や行為によって判断される「政治的存在者」たるために意見や価値の複数性を担保しつつ、いかに分断状況にある社会的連帯を再構築するか、という著者の切実な問題意識である。それは、公共空間において個々人が「現れ」の可能性を奪われないことを何よりも重視したアレントの思想を擁護しながらも、彼女が軽視した「社会的なもの」や「私的なもの」に対する配慮をハーバーマスフーコー、J・バトラーやN・フレイザーといった思想家の議論を導入することで補完しようとする試みであると言える。福祉国家や社会的連帯の解体が進み、渋谷望が指摘するようにアレントの公共性の議論がネオリベラリズムによって悪用されるような昨今にあって、このような作業を重要であることは言うまでもないだろう*2

齋藤氏特有の整理のうまさと論理の明晰さは本書でも健在であり、非常に密度の濃い中身となっている(これで2600円(税抜き)と言うからなんというお買い得感!(笑))。各論稿の分野が多岐に渡っていて様々な示唆を得うる可能性を秘めている著作なので、是非とも一読を願いたい。

*1:本書278頁。

*2:渋谷望(2003)『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』青土社,66-67頁参照。

ミシェル・フーコー(2007)『社会は防衛しなければならない』石田英敬訳,筑摩書房

人種差別主義、それは文字通り、革命の言説ではありますが、逆向きの革命的言説なのです。あるいは次のように言えるかもしれません。複数の人種(=民族)の言説、闘争状態にある複数の人種(=民族)の言説が、ローマ的な主権の歴史的政治的言説に対抗して用いられた武器であったとすれば、単数の人種の(単数形の人種)言説は、この武器の向きを変える手管であって、その武器の刃を国家の保存された主権のために用いる方法であったのだ、と。法から規範へ、法的なるものから生物学的なるものへの移転と引き替えに、人種の複数形から人種の単数形への移行と引き替えに、解放の企てから純粋性への関心への変化を引き替えにして、国家の主権は人種(=民族)間闘争の言説の役目を与え、自分の目的に再利用し、自らの戦略の中に再活用したのです。闘争と解読と要求と約束の旧い言説から派生した革命への呼びかけに対して、それを堰止め、それに代わるものとして、国家の主権はこの言説を人種保護の至上命令へと変化させたのです*1

久しぶりのフーコー(笑)。本書はコレージュ・ド・フランスにおけるフーコーの1975-1976年度講義を収録したもので、最近になってフランスで編集・出版され、日本においても昨年ようやく翻訳される運びとなった。最終講義では、生-権力が「死の中へ廃棄する」権力へと転換する契機が人種主義の導入であったことについても触れられており、先行研究が生-権力の人々を死に追いやる側面を論じる際に、「国民/非-国民」「(社会にとって)必要/不要」といった二項対立をともなわせる論拠ともなっている(この点については後に言及するが)。

本書の冒頭でフーコーは、それまで数年間にわたって講義で扱ってきたテーマが「従属化された知」を顕在化し、既存の学問体系に対して闘争を仕掛けるための「系譜学」的な試みであったことを確認する*2。そして、本年度はその総括として、それらの闘争で賭けられているものとしての権力の探求(「権力とは何か?」という問いの探求)を試みる予定であることを明かしている 。そのような問題意識を念頭に置いたとき、探求の鍵となるものが権力によって服従させられた主体を前提として議論を展開する主権論ではなく、そのような主体がどのような力関係、諸々の装置のネットワーク、メカニズムの下で形成されるのかを問題化できる「戦争の言説」に他ならないということが明らかになるわけだ。

フーコーはこの歴史言説としての「戦争の言説」を考察するに当たって、イギリス、フランスの2つの例を挙げている。

イギリスにおいては、イギリスはノルマン人が征服した植民地であるから、植民地に対するあらゆる要求は無限に認められるという形で王政側は絶対主義を正当化してきた。一方、反王政側は、ウィリアム王(征服当時のノルマン人の王)による王朝成立は、ザクセン人(ノルマン・コンクェスト以前にイギリスを支配していた民族)の王朝を正当な形で継承したに過ぎないものであるから、国王はザクセン王朝の法律や慣習に従わなければならないという形で専制に対抗した。

また、フランスにおいては、4世紀末にローマ帝国内に侵入し、フランク王国を打ち立てたゲルマン人(フランク人)とローマ帝国時代から居住していたガリア人との差異を、共通な祖先としてのトロイア人と見出すことで均質なものに還元し、それによって王政側は官僚主義的な専制を正当化していた。一方、ブーランヴィリエを始めとするフランス貴族たちは、本来戦士貴族階級からなるゲルマン封建体制においては王は極めて限定的な権限しか保持していなかったが、ガリア征服後、ローマ帝国において官僚的な位置を占めていたガリア人と王が癒着をすることで支配体制からゲルマン貴族を追い出したのだとして、王と官僚の癒着を痛烈に批判した。

いずれにせよ、人種=民族という観点から征服=戦争の記憶を掘り返し、既存権力の正当性を揺るがすのが「戦争の言説」であり、それは極めて対抗的な歴史言説であったというわけである。ここにおいて、クラウセヴィッツの有名な言葉を転倒させた、「政治とは他の手段によって継続された戦争である」というフレーズの真の意味が明らかになる。

しかしながら、このように極めて対抗的であった「戦争の言説」も、フランス革命とともに牙を抜かれ、飼い慣らされることになる。フーコーによれば、その契機は三身分制における第三身分であるブルジョワジーの台頭であったという。すなわち、彼らは、ブーランヴィリエによって提示された民族という概念を「法=立法府」、「労働」、「職能」からなるものであると解釈し、「法=立法府」によって絶対君主を、「労働」「職能」によって貴族を民族から排除することによって、「戦争の言説」に基づくあらゆる闘争を法的、経済的なものに還元していったということだ。ここにおいて、ブルジョワという民族は国家に全体化することになり、いわゆる国民国家が誕生する。この均質空間を保持せんとして、19世紀欧州においてしきりに叫ばれたフレーズこそ、本書の題名ともなっている「社会は防衛しなければならない」である。

このように、「戦争の言説」の牙が抜かれ、民族が国家に対して全体化することによって、もはや消滅したかに見えた人種=民族概念であったが、それがナチズムやスターリニズムに典型な国家人種主義として回帰して来たことは周知の通りである。フーコーは、この回帰の端緒となったものこそ、近代以降、人々の生を射程に捉え、それを増強することを目標としてきた生-権力であったと指摘する。つまり、人種主義が回帰し、人々の生に「区切り」を入れることができるようになって初めて、生-権力は人々を「死ぬに任せる」*3 ことができるようになったということだ。

以上見てきたとおり、既存権力に対する対抗言説として登場した「戦争の言説」と人種=民族概念は、最終的には既存権力によってコード化されていくこととなった。その意味で、フーコーが「言説の戦略的多義性」といったことの意味が本書には如実に現れていると言えるだろう。

さて、冒頭で述べたとおり、生-権力の「死の中へ廃棄する」作用を人種主義のような二項対立との結びつきの中で考える先行研究は、本書の議論を論拠にしている。しかしながら、ここまで本書の議論を見てきたことからも分かるように、生-権力と人種主義との結びつきはあくまでも歴史的な経緯としてのものでしかない。つまり、歴史的経緯としては、近代に「生きさせる」権力として登場した生-権力は人種主義と結びつくことによって「死の中へ廃棄する」権力と化し、その最たるものとしてのナチズムやスターリニズムのような惨劇が繰り広げられたけれども、そのような生-権力と人種主義との結びつきは未来永劫のものであるわけではない、ということだ*4。むしろ、我々は現代において人種主義のような二項対立図式に流し込めない排除のあり方を目の当たりにしているではないか(独居老人然り。長時間労働者然り。ネットカフェ難民然り)*5 。その意味でも、フーコーを読む者としては、人種主義とは一線を画す、生-権力概念が内包するさらなるポテンシャルを引き出す思考を提示しなければならないのではないかと感じている

*1:本書83頁。

*2:1971-1975年に行われた4つの講義の題目は次の通り。『刑罰理論と制度』(1971-1972)、『懲罰社会』(1972-1973)、『精神医学の権力』(1973-1974)、『異常者たち』(1974-1975)。題目から分かるように、この時期のフーコーは『監獄の誕生』において詳細に論じられることになる「規律・訓練」という観点から、「従属化された知」の顕在化を試みていたと言える。

*3:『知への意志』においては「死の中へ廃棄する(rejeter dans la mort)」というフレーズが使われていたが、本書ではこの言葉が使われていた。原著ではどのように書かれているのか調べようとしたが、大学の図書館には本書の原著がないという(苦笑)。

*4:実際、フーコー自身も次のように述べて、生-権力と人種主義とのつながりが必然的なものではないことを主張している。「人種主義を経由せずして、どのようにして生権力を機能させ、同時に戦争の諸権利、殺人と死の機能の諸権利を行使することができるか?これこそが問題だったのであり、これはつねに問題になっていると思います」(本書261頁)。

*5:因みに、これらの事例は冒頭で示した「(社会にとって)必要/不必要」という図式には流し込めそうな気がするが(そして、こういう図式を用いた生-権力の引用は結構多いが)、このような、何も言っていないに等しいくらい曖昧な二項対立図式でもって生-権力を語ることにどのような意味があるのか、僕には甚だ疑問である。

「語りえぬもの」の抑圧

「語りえぬもの」抑圧するという議論はしばしばなされてきた。たとえば、「語りえぬもの」としてのサバルタンを西欧言語が代弁・表象するという図式の暴力性を暴露したサイードの「オリエンタリズム」はその典型だ。しかし、ここでは「語りえぬもの」我々を抑圧するということについて考えたい。

たとえば、「人間みがない」「心が冷たい」といった表現はその典型だろう。ここでは「人間」「心」といった言葉の意味内容が所与のものとされているわけだが、おそらく発言者に「『人間』って何?」「『心』って何?」と問うたとしても、「なんとなく分かるだろう!」程度の解答しか返ってこないはずだ(無論、僕もそれ以外の解答を用意できる準備はない)。しかしながら、「なんとなく分かるだろう」程度のもので自らの「非-人間」性を糾弾されるとすれば、そんな理不尽なことはない。というよりも、我々は本当に「何となく分かっ」っているのだろうか?

この問題は、「語りえぬもの」としての「私的対象」を記述する、いわば「私的言語」が存在するか否かという議論に置き換えることができるだろう。以下、「私的言語」について、野矢茂樹の議論を引用しながら考えてみる。

野矢は「私的言語」の問題を考えるに当たって、思考実験としてある一人の子供の例を挙げる。この子供はある日、彼の知っている日本語では何と表現したらよいか分からない体験・感覚に襲われ、それを「トカトントン」と名付ける。つまり、彼は言語を媒介した他者との実践連関からは独立の体験、「私的対象」を、「トカトントン」という「私的言語」をもって記述しているというわけだ。しかし、これは果たして「記述」したと言えるのだろうか。このことについて、野矢は次のように述べている。

ある日、「トカトントン」という名前を定義した。そして次のときに、「またトカトントンだ」と記述する。何をやっているのか。これで体験記述したことになるのだろうか。/まったく同じ状態が訪れたのではないことに注意しなければならない。以前の「トカトントン」といまの「トカトントン」はまったく同じものではない。それはおそらく質的にも多少は異なっているだろう。・・・・・・いや、多少の違いは気にしないことにするのだ、言われるだろうか。まったく同じではないが、似ているから、これも「トカトントン」なのであり、「タカタンタン」ではないのだ、と。だとすれば、それもまた「トカトントン」の定義にほかならない。つまり、二度目のそのとき、それもまた「トカトントン」に含めるということを定義したのである。・・・・・・いつまでも定義を繰り返さなければならない。私がやっていることは、つねに「これを『トカトントン』と呼ぼう」と定義しているにすぎない。体験記述の見かけをもつそれは、実は、「トカトントン」の定義という果てしない作業の泥沼であり、いつまでたってもその意味は確定しないのである*1

つまり、最初の「トカトントン」と二番目の「トカトントン」、三番目の・・・は全て異なっているはずであり、それらを全て「トカトントン」と記述しようとすることは実は「トカトントン」の定義を果てしなく繰り返すことに他ならない、ということである。これは、あらゆる「トカトントン」が同じものであったとしても事情は変わらない。なぜならば、「同じ」ということは何らかの基準を参照しながら用いられる言葉であるが(たとえば、「柴犬とブルドックは犬としては同じ」と言う時に、「犬」という基準を参照しているように)、「トカトントン」の場合、参照基準が「トカトントン」自身であるため、「同じ」ということの認定が「トカトントン」それ自体の定義と連動してしまうからだ。

以上の事柄を考慮すると、結局のところ、「私的言語」はなんでもありの、誤りがないものということになってしまう。それは誤りが存在しない以上、記述とは呼べない。これについて、野矢は次のように述べる。

私的言語における実情は、ただ、ある状態になると私は「トカトントン」と言いたくなる、というものにすぎない。誤りえないものは記述ではない。それはたんにある状態に促された「うわごと」にすぎない。一見言語の見かけをしていても、実はまったく言語ではないのである。・・・・・・とすれば、私的言語が実はいささかも言語ではなかったということは、すなわち、「私的対象」なるものも、実はいささかも対象ではなかったということを意味している。そこには、対象が対象として成立するために要求される同一性が決定的に欠けている。/私的対象など、存在しない*2

つまり、「トカトントン」を永遠に定義し続けるがゆえに同一性を担保できないのが「私的言語」であるため、「私的対象」も同一性を担保できていない、つまりそれは対象として成立していない、ということである。それゆえ、野矢は「私的対象など、存在しない」と断定するわけだ。

以上の野矢の議論を踏まえれば、先に示した「人間」「心」の意味内容を我々が「何となく分かっている」というのも、欺瞞に他ならないと言えるだろう。我々は、それらの言葉の意味内容を他者との実践連関の中で言語化しない限り、その同一性を担保することができず、そうである以上、そもそもその意味内容は存在しないということになるのだから。

そして、このような「語りえぬもの」の欺瞞が、しばしば「非-人間的」「非-理性的」という形で多くの人々を抑圧してきたことを、ここで思い出さなければならない*3。我々は、これらの「語りえぬもの」の欺瞞が引き起こした惨劇を再び繰り返さぬためにも、「語りえぬ」という地点に安住してはならない。常に、「語りえぬもの」に対して懐疑の目を向け、それを言語化する努力を惜しんではならないのだ*4

もう一度、自戒を込めて書き留めておこう。

我々は「語りえぬ」という地点に安住してはならない、絶対に。

*1:野矢茂樹(1999)『哲学航海日誌』春秋社,53-55頁。

*2:野矢,56-57頁。

*3:ここで意識しているのは、何も「狂人」「精神病者」だけではない。そのような人々でなくとも、日常生活の中で「人間みがない」「心が冷たい」という言葉の孕む暴力性に直面した経験のある人は多いはずだ。かく言う僕もまた・・・。

*4:念のために言っておくと、僕は「語りえないこと」を糾弾したいのではない。僕自身、ふとした時に感じるあらゆる感覚や違和感を言語化できているわけではないから。むしろ、ここで批判したいのは、それらの感覚や違和感を言語で表現する努力をしない、あるいは表現したとしても極めて曖昧な仕方でしかないにも関わらず、それを理解しない「他者」を批判しようとするその姿勢である。そのような姿勢を示す人に対して、恐らく僕は次のように言うだろう。「あなたが言う『語りえぬもの』というのは、そもそもあなた自身が理解できていない、いや、むしろ存在していないものではないのか?」と。