フーコーの生権力とネグリの生権力


ネグリは〈生権力〉と〈生政治〉という近年の鍵概念をフーコーに負っている。しかしその事実を超えたところで、これら二概念の意味がネグリフーコーで大きく異なっていることはそれほど知られていない」*1と指摘する箱田徹は、両者の生権力論の違いについて2つほど言及している。

まず、一つ目について、箱田は次のように述べている。

フーコーによれば〈生政治〉とは、ある領域(ウェストファリア体制以後の主権国家とほぼ同義)の内部で生活する人々を〈住民〉(=人口)として集合的に把握した上で、そこで生じる健康・衛星・出生率・寿命・人種といった生物学的・病理学的現象を問題化し、それに応じる国家の統治理性のあり方を指す。・・・・・・したがってこの意味での生政治は、ネグリが論じる、ポスト・フォーディズム体制下での労働時間と非労働時間の区別の消失、傾向としての非物質的労働の台頭といった事柄は含まれない。フーコーの生政治とはあくまでポリス、すなわち行政管理にかかわるものであって、政治の概念ではない*2

ここで箱田が何を持って「政治の概念ではない」と言っているかについては議論の余地があるが、とりあえずその点は問わない。彼によれば、フーコーの生権力は生政治とほぼ同義で使われていて、その意味するところはある領域の住民(近代において、それは国民国家における国民とされた)の生を増強する行政管理のための統治テクノロジーであった*3。それは、ドゥルーズ的な管理社会論の観点から規律訓練権力の全面化した管理社会の権力のあり方を生権力と呼んだり、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行にともなって生じた労働形態の変容を生政治に含意させたりするネグリの生権力論とは大きく異なっているというわけだ。

2つ目の違いについては――こちらの方がより重要であるが――次のように述べている。

フーコーにとって生政治・安全・人口といった概念群は、何よりもまず、法を軸とした主権型権力から、ノルムを軸とした規律訓練・安全型の権力への移行を示すものであった。・・・・・・他方でネグリにとって、主権は生権力の側に見出されるものであり、その上で生権力と生政治の本質的な非対称性が把握されている。すなわち生権力とはグローバルな形で行使される主権の〈帝国〉的形態であり、生政治とはそこで営まれるマルチチュードの政治的かつ経済的な生産活動を指す。この枠組の下で、ネグリは〈帝国〉とマルチチュードとの間の、あるいは資本とプロレタリアートとの間の今日的な敵対性の争点が、生そのものであることを描き出す*4

先に、フーコーの生権力論においては生権力と生政治はほぼ同義のものとして扱われていたと述べた。しかも、箱田が指摘するように、そこでは生権力は主権権力と異なる権力のあり方として捉えられるものであった。ところが、ネグリの生権力論においては主権論をも含意する形で両者を異なるものとして扱っていると箱田は指摘する。すなわち、生権力とは社会に対して超越的に命令を下しつつ搾取を行う〈帝国〉的主権であり、生政治とは社会に内在しながらネットワーク的な労働を通して社会的連帯を構築するマルチチュードの営みであるというのだ。

このような「生権力・〈帝国〉的主権/生政治・マルチチュード」という枠組は、ネグリ自身も次のように述べて明確に示している*5

生権力(biopower)と生政治的生産(biopolitical production)はともに社会的生全体とかかわる――だからこそ、バイオという共通の接頭語がついているわけだ――が、そのかかわり方はまったく違う。生権力は主権的権威として社会の上に超越的にそびえ立ち、命令を下す。これに対して生政治的生産は社会に内在し、労働の協働形態をとおしてさまざまな社会的関係や社会的形態を創出する*6

以上が箱田が指摘する2つの差異であるが、2つ目のものについてはネグリが構築せんとするマルチチュードという主体性の概念とも関わるため、もう少し掘り下げて見ることにしよう。

そもそも、ネグリが上記のようにフーコーの生権力論を大幅に変更する形で論を組み立てたのは、フーコーに対してある限界を感じていたからに他ならない。これについて彼は次のように述べている。

フーコーは――彼が社会の生政治的な地平を強力な仕方で把握し、それを内在性の領野として規定したときでさえ――その研究を最初から領導していた構造主義的認識論からみずからの思考を引き離すことに成功したとは思えないのだ。言いかえるなら、システムの原動力やその運動がもたらす創造的な時間性、ひいては文化的・社会的生産の存在論的実体を実質的に犠牲にしてしまうような方法の再発明のことを意味している。・・・・・・フーコーが最終的に把握し損ねたもの、それは、生政治的な社会における生産の真の動態にほかならない*7

ネグリは、「権力の対象はいまや生そのものである」というフーコーの指摘に対して、管理社会における新たな権力のパラダイムが生(身体)そのものを掛け金とするものであることを的確に捉えている点に大きな意義を見出している。しかし、ネグリに言わせれば、フーコーの生権力論はせっかく権力の掛け金として見出された生を受動的なものと見なしがちであり(このような認識をネグリは「構造主義的認識論」と呼んでいるのであろう)、それが持つ創造性や潜勢力を見落としてしまうという陥穽にはまっている。要するに、フーコーの生権力論からは主体性を導くことができないというわけだ(このようなネグリフーコー批判が妥当するかどうかは相当の議論の余地があるように思われるが、ともかくそのようにネグリフーコーを評価している)。

ここにおいて、先の箱田の2つ目の指摘の中の「生権力・〈帝国〉的主権/生政治・マルチチュード」の枠組が要請される。ネグリは権力の掛け金としての生の創造性や潜勢力を、生権力・〈帝国〉的主権に対して対抗させながら、生政治・マルチチュードという言葉でもって表すことによって、フーコーが見落とした主体性を強調しようとしたのである。

以上のように、近現代の統治のあり方を審らかにしようとしたフーコーの生権力論と、主体性を強調せんがためにフーコーの論を大きく改変することで練られたネグリの生権力論とでは、その目的も性質も大きく異なっている。そうである以上、〈帝国〉時代においてフーコーの生権力論そのものをどのように論じるかを考える試みは非常に重要なものであると言えるだろう。

*1:箱田徹(2008)「生政治から統治と啓蒙へ」『現代思想』第36巻第5号,173-179頁。

*2:箱田,174頁。

*3:フーコーが生権力を定式化した『知への意志』においては、生政治は生物学的プロセスを支える身体を中心に据える調整・管理のテクノロジーとして生権力の一つの極と捉えられていた(ミシェル・フーコー(1986)『知への意志』渡辺守章訳,新潮社,176頁)。ところが、この後の生権力を主題に据えたコレージュ・ド・フランス講義である『安全・領土・統治』(78年講義)、『生政治の誕生』(79年講義)では、両者の区別はほとんどされなくなったという。

*4:箱田,175頁。

*5:誤解がないように言っておくと、この枠組は二項対立図式ではない。ネグリ自身が〈帝国〉をマルチチュードの「寄生体」と表現するように、両者の関係は表裏一体的であると考えるのが正当である。

*6:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2004)『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』幾島幸子訳,NHKブックス,167頁。

*7:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社,45-47頁。