齋藤純一(2008)『政治と複数性 民主的な公共性にむけて』岩波書店

政治と複数性―民主的な公共性にむけて

政治と複数性―民主的な公共性にむけて

私は、政治的生活にこそ生の本質的な意味があるという、多分にアリストテレス的共和主義の伝統に沿った、彼女の一方の議論は支持しないが、人びとがその意に反して政治的生活から排除されることは不正義とみなされるべきであるという―一般の解釈では必ずしも重視されているとはいえない―彼女の議論を支持する。・・・・・・自らの言葉や行為において互いに現れること、共有される世界が今後いかにあるべきかについて意見を交わすこと。この政治的自由を相互に保障し合うような関係性を創出し、維持していくことが、民主的名公共性の条件であるという理解を私はアーレントと共有している*1

思考のフロンティアシリーズにおける『公共性』や『自由』にでお馴染みの齋藤純一の近著。去年の年末にはFoucaultlianの通う大学の院の集中講義にもいらっしゃっていた(因みに、Foucaultlianも学部生のくせに参加してやたらと出しゃばってました(苦笑))。その最終日の書評会において、書評の対象となったのも本書である。

本書は、一部を除いて、1990年代後半から現在に至るまでの著者の論稿を一冊にまとめた政治論集であり、一貫した流れのようなものがあるわけではない。しかしながら、それぞれの論稿において通底しているのは、ナショナリズムエスノセントリズムアイデンティティの政治といった、個々人のアイデンティティを同質性に還元する傾向のある「表象の政治」に抗しながら、個々人がその意見や行為によって判断される「政治的存在者」たるために意見や価値の複数性を担保しつつ、いかに分断状況にある社会的連帯を再構築するか、という著者の切実な問題意識である。それは、公共空間において個々人が「現れ」の可能性を奪われないことを何よりも重視したアレントの思想を擁護しながらも、彼女が軽視した「社会的なもの」や「私的なもの」に対する配慮をハーバーマスフーコー、J・バトラーやN・フレイザーといった思想家の議論を導入することで補完しようとする試みであると言える。福祉国家や社会的連帯の解体が進み、渋谷望が指摘するようにアレントの公共性の議論がネオリベラリズムによって悪用されるような昨今にあって、このような作業を重要であることは言うまでもないだろう*2

齋藤氏特有の整理のうまさと論理の明晰さは本書でも健在であり、非常に密度の濃い中身となっている(これで2600円(税抜き)と言うからなんというお買い得感!(笑))。各論稿の分野が多岐に渡っていて様々な示唆を得うる可能性を秘めている著作なので、是非とも一読を願いたい。

*1:本書278頁。

*2:渋谷望(2003)『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』青土社,66-67頁参照。