萱野稔人(2005)『国家とはなにか』以文社
- 作者: 萱野稔人
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2005/06/17
- メディア: 単行本
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雇用のフレキシブル化がさけばれ、失業者は――やむをえないものとして――なかば放置される。財政難または自己責任という理由のもとで社会保障制度は縮小されていく。工場の海外移転にともない国内市場は空洞化をはじめた。冷戦状態も解消し、革命の恐れはほとんどない。社会的矛盾を緩和するクッションであった、生存権や社会権は急速に形骸化しつつある・・・・・・。ドゥルーズ=ガタリによれば、こうした動向は全体主義に固有のものだ。・・・・・・つまり、全体主義的実現モデルにおいては、資本の価値維持や外的部門の均衡にかかわる公理が保持され、住民の生存条件や権利にかかわる公理は廃棄される。・・・・・・こうした公理の除去によって、国内市場は崩壊し、社会的矛盾は増大する。そして、そこから生じる撹乱的な諸要素を制圧するために、国家はより強権的な手段の行使をいとなわないだろう。公理の縮減の埋め合わせに、国家の暴力性が全面に出てくるのだ*1。
『ロスジェネ』や『VOL』、『思想地図』といった新興雑誌にも頻繁に寄稿するなど、積極的な活動が目立つ若手政治哲学研究者萱野稔人の著作。本書は、タイトルになっている「国家とはなにか」という問いを、法制度や組織機構の観点から読み解こうとする経験科学的アプローチに拠らずして、概念としての国家を捉える哲学的アプローチの観点から考察することを、ウェーバーやシュミット、フーコー、バリバール、ドゥルーズといった思想家の議論に依拠しつつ試みている。
まず、前半の1〜3章では、マックス・ウェーバーの「国家とはある一定領域において正当な物理的暴力を独占する人間共同体である」という定義より出発して、富の我有化という目的のために、人々の行動を構造化し操作する権力を用いながら暴力を独占・組織化し、そのようにして肥大化した暴力がさらなる富の我有化や権力の強化を促進するという、暴力の循環論的運動を国家の本質として描いている。
続く後半の5〜6章では、国家が現在のあり方に至るまでの系譜を考察することで、一定領域の暴力を独占・組織化して成立するがゆえに領土の掌握を重要視する主権国家が、君主という特定の人格に依存した暴力の組織化が孕む不安定性を打破するために、暴力の担い手をナショナリズムによって練り上げられた「国民」に民主化することによって国民国家へと変貌する過程を明らかにし、それら一連の経緯が資本の流れを円滑にするための「公理系」を国家が実現しようとする営みに相関することを指摘している。
以上の論の中間にある4章では、国民国家批判や国家=フィクション論の誤謬を指摘することで、本書の考察が、国民国家を国家のプロトタイプとして自明視しない視点、あるいは国家の暴力をイデオロギー装置や言説から派生する虚構のものに還元しない視点からのものであることを示して、本書の依拠する方法論を明らかにしている。
本書の特出すべき点は、先行研究に対する批判的視座の鋭さだろう。4章における国民国家批判・国民=フィクション論に対する批判はもとい、たとえばアガンベンの生政治論に対する批判などは、フーコーとアガンベンの双方を読んでいる僕としてもなるほどと頷かされてしまった程である(ボム)*2。
また、全体的にくどいくらいの説明がなされており、それなりに難解な思想の議論を扱っている割には分かりやすかったように思う。特に、後半の主権国家から国民国家への系譜を辿っている部分は、社会科学の基本とも言うべき教科書的な内容なので、法学部や経済学部に入学したての1年生が頭を抱えながら(笑)読む本としては結構良いんじゃないかろうか。冒頭に挙げた以外にも、結構な数の思想家の議論が引用されるので、ブックガイドとしての役割も果たしうるだろう。
しかし、そうした教科書的、ブックガイド的な性格が強いがゆえに、諸々の思想や議論をただだらだらと紹介しているだけのようにも読め(というか、萱野の議論はそれらに乗っかり過ぎな感がある)、いまいち萱野自身のオリジナリティが伝わって来ない。僕は、冒頭の引用にも挙げた、現代の国家のあり方を「全体主義体制」という言葉で表すドゥルーズの議論は面白いと思ったが、本書で引用される議論や思想を面白いと感じることと、本書を面白いと感じることはまた別の話である。その点で若干の物足りなさを感じた。
ともあれ、従来の潮流とは趣きを異にしながら、フィジカルな視点から国家の暴力を捉えなおそうとした本書が与える視座は、決して意義の小さなものではないと言えるだろう。