これが「正しい」戦争というものか!さあ、もう一度!(ボム)

マイケル・ウォルツァー(2008)『戦争を論ずる―正戦のモラル・リアリティ』駒村圭吾他訳,風行社より。

私たちはみな、戦争を論ずるべきであり、民主主義国家に生きる市民にとってそれは政治的責務(political obligation)にほかならない、この本で私が主張したいことはこのことです。世界史を見れば、私たちは戦争で物事を解決することに反対すべきである多くの事例を学びますが、ときには戦争を肯定的に論じなければならない(と私が考える)事例も存在しております。・・・・・・暴虐な(そしてときに狂っている)専制者、破綻国家や反目し合う好戦的な支配層、宗教的狂信主義や民族浄化、大量虐殺、武器の自由市場、生物化学兵器や核技術の管理不能な拡散などにより蝕まれている世界においては、武力行使をいかなる場合であれ拒絶しようとすることは、憎悪や破壊、死に対するある種の幸福のようなものです。かかる幸福は、これら悪を行う者たちに対する道徳的に正当化された対応ではありません。もし私たちが自分自身のため、そして、現代世界において最も傷つきやすい人々のためにも最低限の安全保障を確立したいと願うのであれば、誰かが(ときには)戦う用意をもたなければなりません*1

もう、ネタにしか読めないお( ^ω^)
というか、「暴虐な(そしてときに狂っている)専制者、破綻国家や反目し合う好戦的な支配層、宗教的狂信主義や民族浄化、大量虐殺、武器の自由市場、生物化学兵器や核技術の管理不能な拡散などにより蝕まれている」って、アメリカ人たるウォルツァーの自虐ネタかお( ^ω^)


さらに、道徳理論に依拠する正戦論が内包する諸概念は単なる「ブラック・ボックス」じゃないか、というポストモダニストからの批判に対するウォルツァーの返答。

彼ら(ポストモダン左派とウォルツァーが呼ぶ人々)は、正義を認めることは偽善であると主張しているわけではない。偽善性を批判するには基準の存在が前提されているからである。むしろ、彼らは、基準などは存在せず、したがって、正戦論の諸概念を客観的に使用することなど不可能であると、と主張するのである。・・・・・・このような見解を、私たちに差し迫った状況に沿って表現するならば、次のようになる。「ある者にとってのテロリストは、別の者にとっては自由の戦士である。」この見解によれば、どちらの側につくかという選択をする以外に理論家や哲学者にとってなすべきことはない。しかも、その選択を指導する理論や原理は存在しない、ということになる。だが、このポストモダン左派の立場は、不可能な立場である。というのは、この立場は、無辜の人々の殺害を、私たちは、認識することも、非難することも、積極的に反対することもできない、とみなすからである*2

この批判における論理の飛躍にはもはや呆然とするしか・・・(j・ボム)。

まず、「ポストモダン左派」って何なんだよみたいな(苦笑)。このウォルツァーの批判はあらゆる倫理的・道徳的価値を認めない「究極の相対主義」の立場を取る論者にしか通用しないけれども、そんな論者なんて、ポストモダニストの中では一部だし。それなのに、「究極の相対主義者」の形象をもって「ポストモダン左派」を一括りにし批判するのはあまりにも暴論的過ぎる。

そもそも、ポストモダン的言説を用いて正戦論を批判する論者の議論は、正戦論が依拠する道徳的諸概念には「普遍性」などあり得ず、解釈次第ではいかようにも言える「ブラック・ボックス」に過ぎないから、そういう概念でもって戦争を正当化するのは結局体制による侵略戦争にお墨付きを与えることにつながりかねない、といった類のものだ*3。だから、「ある者にとってのテロリストは、別の者にとっては自由の戦士である。」というポストモダン的見解から、「どちらの側も一緒ということだから、問題はどっちにつくかということだけ」という帰結を見出すウォルツァーの議論は上記のような「ポストモダン左派」の批判の文脈を無視するものに他ならない。要は、批判しやすいように「ポストモダン左派」の言説を歪曲しているようにしか見えないということだ。


あーあ、施先生の授業でコミュニタリアンとして紹介されていた時のウォルツァーは比較的面白かったのに、正直失望だお( ^ω^)
こんな本、3000円近くも出して買うもんじゃないお( ^ω^)
最後まで読むのが激しくめんどいお( ^ω^)
おっおっおっ( ^ω^)

*1:本書酛頁。

*2:本書26頁。

*3:たとえば、フーコーを中心にポストモダニズムに依拠する政治理論家である杉田敦はウォルツァーの正戦論を評して次のように述べている。「今日の世界では、何が戦争であり、何が犯罪であり、何がテロであり、何が正義であり、何が悪であるかは、経済的・軍事的影響力を有する特定の勢力が勝手に決められるという慣行が確立しつつある。ウォルツァーの正戦論は、そのような事実上行われる定義に、一種のお墨付きを与えるものとして、利用され続けることだろう」(杉田敦(2005)『境界線の政治学岩波書店,170頁)。

難民問題に関する先行研究批判(2)

本屋でふと見かけた萱野稔人の『国家とはなにか』の一節より(因みに、この本、久々に「衝動買い」してしまいました(苦笑))。

国民国家批判が正当にも指摘するように、国民国家の形態は近代をつうじて形成されてきたものであるならば、それ以前には国民的ではない国家が存在したはずであるし、また今後、存在しうるはずである。実際、暴力にもとづいた接続的な支配があれば、国民や共同体の有無にかかわらず国家は成立する。/だが、当の国民国家批判には、国民形態以外の国家のあり方を思考する視座がほとんどない。だからこそそれは、グローバリゼーションとよばれる現象によって、既存の国民形態をささえていたいくつかの制度が機能不全におちいると、それを国家そのものの解体の兆しと取り違えてしまうのである。じっさいには、これまでとは異なる国家のあり方が出現しつつあるだけなのだが*1

この萱野の言及は、以下のようなブルデューの引用を受けてなされているものである。

国家について思考しようとすることは、国家の思考をみずからに引き受け、国家によってつくられ保証された思考のカテゴリーを国家にあてはまえること、したがって、国家に関するもっとも基本的な真理を誤認する危険をおかすことである。・・・・・・われわれが世界のあらゆる事象に自発的にあてはめる思考カテゴリーを・・・・・・つくり上げ押しつけることこそ、国家の主要な力の一つであり、われわれは国家から与えられた思考カテゴリーを国家そのものにあてはめていることを理解する・・・・・・・*2

つまり、ここで萱野の言わんとすることは、国民国家を批判しようとする論者は、国民国家の論理が与える思考の枠組を所与のものとしながら批判を展開しなければならないがゆえに、しばしば国民国家のプロトタイプを自明視してしまいがちだ、ということである。そして、グローバリゼーションという現象を国民国家の「衰退」と捉える言説が根強いのも、上記のように国民国家のプロトタイプを自明視する結果にほかならないと言うのである。

このことは、「難民」を国民国家批判という文脈でのみ、捉えようとする先行研究にも言えるのではないだろうか。

たとえば、そのような議論の典型として、このブログでもしばしば取り上げてきた上野成利は、国民国家体制を基礎付ける近代政治の文法が、「生まれ」の論理を上書きされることで「国民」と同一視されるようになった「人間」と主権国家体系や限定戦争を可能にした「ヨーロッパ公法」が内包する「ヨーロッパ」という「領域性」の二つの要素によって成り立っていたことを、前者についてはフーコーアレントアガンベンに、後者についてはシュミットにそれぞれ言及しながら、指摘する。そして、19世紀以降、欧米列強がこぞって帝国主義政策を取ったことによって主権国家体系に広大な植民地が取り込まれて「ヨーロッパ公法」の基盤たる「ヨーロッパ」という「領域性」が失われ、限定戦争から絶対戦争=総力戦への移行が起こった結果、そのような総力戦を契機により純化した国民国家が、その包摂-排除機能を、「生まれ」の論理に基づいて「生きさせる」存在としての「国民」と「死の中へ廃棄する」存在としての「非-国民」の選別機能を強化したことで、大量の難民が生み出されることになったと述べる。

上野は上記のようにして生み出された難民を、次のように述べながら、国民国家体制が孕む矛盾を逆照射する形象であるとしている。

近代国民国家を構成しているのは一見すると、純粋に法学・政治学的カテゴリーとしての『国民であるようにみえるけれども、この「国民」には生物学的な生命としての「人間」が確実に書き込まれているということ−この「国民=人間」の重ね書きのトリックが、難民のような存在者からいわば逆照射されるわけである*3

しかしながら、先述の萱野の指摘と照らし合わせた時、この上野の議論もまた「国民=人間=生きさせる存在/非-国民=非-人間(難民)=死の中へ廃棄する存在」という国民国家の論理を所与のものとするがゆえに国民国家というあり方を自明視してしまい、その結果として「難民」という概念を国民国家との連関性の中に閉じ込めてしまっていると言えるのではないだろうか*4

先日、「難民問題に関する先行研究批判(1)」(http://d.hatena.ne.jp/Foucaultlian/20080302/1204482696)というエントリーで、ポストモダニズムの言説に基づく国民国家批判が〈帝国〉的主権と共犯関係にあることを指摘するネグリ=ハートの議論を引用していたが、そうだとすれば、今我々に必要なのは、国民国家批判の文脈から「難民」という概念を解き放ち、あらゆる国境、差異を脱領域化/再領域化しながら編成される搾取の構造を、第一世界/第三世界という二項対立を超えてモザイク状に散在する「貧困」の様態を再政治化し、捕捉し得る政治用語として再定義することであると言えるだろう。

その際、「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という、国籍の有無や居住地の如何を問わない日本語の「難民」という言葉の元々の意味から出発する市野川容孝の議論は大変示唆的である*5

より具体的に言えば、市野川の議論は、「『難民』という言葉が何を意味してきたのか、何を意味しうるのか」*6という問いを主題に据えて、上記の日本語における意味を出発点としながら「社会学的文献学」と呼ばれる方法論を用いて「難民」という概念を国民国家批判の文脈から鮮やかに解き放つものであり、これは僕の問題意識とも大いに重なっている。

しかしながら、そのような市野川の議論にも以下に示すような二つの問題点がある。

一つ目の問題点は、市野川自身が自ら指摘する以下のような記述にある。

しかし、このような分析(日本語に基づく社会学的文献学という方法論をとる分析)は、ある意味で全くの茶番である。なぜか。パレスチナ「難民」と、日本語でそう呼ばれる人びとが、自分たち自身を自分たちの言葉でどう呼んでいるのか、全く考えていないからである。それを考えない日本語の一人相撲、いやナルシシズムは、まさにサイードの言う「オリエンタリズム」、すなわち一方には、自分たちが何者かを自分では言い表せず、無言で横臥したまま、ただ「提起」するだけのオリエント、他方には、そのオリエントに成り代わって、オリエントの謎を「解決」する西洋、という代理表象の構図を(今沢紀子訳『オリエンタリズム』上巻,平凡社,1993年,317頁)、今度は西洋(英語)に成り代わって、再生産するにすぎないだろう*7

この記述の前では「パレスチナ難民」の問題について、日本語の「難民」の定義を元にした「社会学的文献学」の議論が展開されているのだが、そういった方法論を取るがゆえに、サバルタンとしての「パレスチナ難民」を日本語をもって代弁するという、オリエンタリズム的構図が成立してしまっているのではないか、と市野川は自省するのである。このような問題点は、何も「パレスチナ難民」を論ずる場合のみに妥当するものではなく、「社会学的文献学」という方法論一般に共通するものであろう。

二つ目の問題点は、市野川の議論が「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という日本語の元々の語義を前提に据えるがゆえに、国民国家批判という文脈でしか「難民」という概念を捉えようとはしない論者たちを「外在的」にしか批判し得ないのではないか、という点である。つまり、「我々はそのような『難民』の定義を共有することはできない」と言われてしまえばそれまで、ということだ。

したがって、僕は市野川と問題意識を共有しながらも、彼とは別の方法で「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という広義の「難民」の定義へと辿り着こうと考えている。その時、鍵になるのが、昨年度の論文において示した「二分法を超える生-権力解釈」である。つまり、「難民」を国民国家批判の文脈で捉える論者の大半がその理論的基盤に据えるフーコーの生-権力論を、昨年度の論文を参照しながら刷新することによって、いわば彼らの議論に「内在」しながら「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という定義へ辿り着いてやろう、というわけだ。まあ、この点についてはもう少し考えが詰まってから、また後日にということで。

  • 追記(8/4):IZUMI先生のアドバイスに対する応答です。

「難民」を論じることで「国家」の論点を示唆する方向でいくのか、それとも「国家」を真正面からとりあげるのかで、かなり展開はちがうでしょう。
そもそも「政府」ではなく「国家」ならば、区別と定義を、どう考えるのか、それ自体がかなりややこしい。
グローバル化のみならず、EUや「分権化」のようなものを「国民国家」の「解体」論とどう関係させるのか。
やはり「国家」を正面に据えると、「小論」では論じきれないような気もしますが、どうでしょうね。

このエントリーで言えば、前者は国民国家批判の文脈の下で「難民」を捉える議論に、後者は『国家とはなにか』における萱野さんの議論に類似している*8と言えると思いますが、僕自身の問題意識としては、「国家」をめぐる議論に付随する概念ではないものとして「難民」という言葉そのものを捉え返したいと考えているので、どちらの方向性とも大分趣を異にしているんじゃないかなぁと思っています。萱野さんを引用したのは、彼の国民国家批判に対する批判の視座が使えそうだなと思ってのことであって、「国家」そのものを検討しようとする議論に興味を持ったから、というわけではありませんでした(実はまだ、引用した箇所付近と冒頭しか読んでないですしね(ボム))。

プリンさんとは違って、あまり作業の進行状況等をブログに公開しないので、先生には色々とご心配をお掛けしているかも知れませんが、8月後半の合宿までには何とか「はじめに」から「先行研究整理」くらいまでは書き上げられそうな気がするので、首を長くして待っていて頂ければ^^;

*1:萱野稔人(2005)『国家とはなにか』以文社,142頁。

*2:ピエール・ブルデュー(2001)「国家精神の担い手たち」三浦信孝訳『環』第5巻,98頁。ただし、萱野,141頁よりそのまま引用した。

*3:上野成利(2006)『暴力』岩波書店,17頁。

*4:実際、グローバル化にともなって国民国家の機能は「低下」したとする、次のような記述からも上野が国民国家モデルを無意識のうちに自明視していることが読み取れる。「(近代政治の文法が孕む矛盾による国民国家の機能不全や20世紀後半のグローバル化の進展に触れた上で)つまり国民国家は、その量的な拡大とまさに軌を一にするようにして、質的な重みを相対的に低下させていったのである」(上野,47頁,括弧内引用者)。

*5:市野川容孝(2007)「難民とは何か」市野川容孝・小森陽一『難民』岩波書店,73-176頁参照。

*6:市野川,73頁。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*7:市野川,107頁,括弧内引用者。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*8:萱野は同書のテーマについて次のように述べている。「国家とはなにか。国家などというものがなぜ存在しているのか。そもそも国家が存在しているというのはどういうことなのか」(萱野,4頁)。

「ハイパー近代」の試金石としてのチベット

土佐弘之(2008)「方法としてのチベット」『現代思想』第36巻第9号,24-32頁より。

経済的な側面に限って言えば、既に、「西洋をもう一度東洋によって包み直す」動きが見られるという説もある。・・・・・・しかし、最近のネオリベラルな中国資本主義の興隆が示していることは、むしろ東洋が西洋に完全に包み込まれていく過程として見た方が妥当と思われる。つまり、たとえパワーの中心が西から東へ移っていったとしても、世界秩序そのものは根本的には変わらず、ネオリベラルな世界秩序がより浸透・拡大していくことになるのではないかということである。ある意味では、それは、近代の超克とはほど遠い、欧米的ハイパー近代を複製する道である。当然、それは、近代の矛盾をも複製する道でもある。その複製された矛盾が幾重にも折り重なっている問題の一つとしてチベット問題を位置付けて考えることが可能ではないだろうかというのが本稿の問題提起である。*1

アレントが指摘した国民国家体系が生み出す「難民」という矛盾やネオリベラリズムの放縦によって出現しつつある〈帝国〉的主権など、「ハイパー近代」が孕む諸々の論点がチベットに凝縮されているのではないか、という指摘。

チベットを通してグローバル化やポスト近代が孕む問題点を考えるみたいな論文も面白いのかも知れませんね(もちろん、今年度の僕の主題ではないですが(ボム))。

*1:土佐、26頁。

W田君の卒論構想

土曜日にW田君の卒論の構想をちらっと聞いた。

文学部英文学科に所属しているW田君は、元々ヘミングウェイや最近流行っているもので言えばポール・オースターなど、アメリカ文学を好んで読んでいたようで、卒論でもヘンリー・ミラーというアメリカ人作家の『北回帰線』という小説を扱うらしい。ただし、話を聞く限りでは、また本人自身もそう言っていたように、単なる「文芸批評」というよりも「政治哲学」的なものを目指すというから中々面白い。

なんでも、ヘンリー・ミラーという人は、ヨーロッパ各国に点在するエスニックなコミュニティを転々としながら小説を書くという、日本で言えば山下清のような生活をしていたらしい(最も、こちらは画家なのだが)。そこで特徴的なのが、あるコミュニティで大分溶け込めてきたと思ったらそこを逃げるように去ってしまうミラーの行動なのだが、このような特徴はカフカの小説(何という題名だったかは忘れた(ボム))に出てくる、巣穴を掘ってちょっと安住してはまた天敵に恐怖に駆られて次の巣穴を掘り続けるモグラ(みたいな動物)の行動に共通して見られるものだとW田君は言う*1

つまり、ある特定のコミュニティ=巣穴に安住することを拒否するミラーとこのモグラは、双方とも「内/外」という二項対立図式の固定化から逃れようとしているのではないか、というわけだ。これは、W田君の好きなドゥルーズ=ガタリの言葉で言うところの「ノマド」とも関連しているような事柄だろう。

そして、このようなミラーの特徴が共同体無き後*2の現代において、「内/外」を再固定化しようと試みる偏狭なナショナリズムとは異なる主体のあり方、「内/外」の二項対立図式を脱構築することを可能にする「コスモポリタン」的な主体のあり方*3を示唆しているのではないか、これがW田君の主張の核心である。

まあ、口頭で聞いただけだし、まだまだ曖昧な輪郭の段階を出ないものだとは思うが、中々の「大風呂敷」ゆえに、どのようなものとして完成するのか、終局をどこで見るのかが楽しみだ。僕も頑張んないと^^;

*1:W田君によれば、ミラー自身もしばしばカフカに言及していたらしい。

*2:話をしていた時、「ここで言う『共同体』って何?」って尋ねたところ、W田君は「良く分からん」って言っていた(苦笑)。おそらく、彼の意図したいことは大方「大きな物語」「恒常性」の崩壊といったところだと思う。まあ、彼が書くのは人文科学の論文だから、社会科学の論文と同じ目で構想を切るべきではないだろう。ただし、杉田俊介さんのような文体は止めて欲しいというのが僕の切なる願いである(j2ボム)。

*3:W田君は「コスモポリタン」という言葉を使っていたが、多分この言葉はW田君の主張には相応しくないと思う。というのも、「コスモポリタン」と言うと、従来国民国家レベルで行われていたリベラル・デモクラシーを世界大に広げようとする試みのような印象があるから。おそらく、W田君の発想はネグリ=ハートの「マルチチュード」に近いのではないかと思う。

鋼鉄プリンさんへの応答―杉田俊介『無能力批評』について

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

杉田俊介(2008)『無能力批評 労働と生存のエチカ』大月書店、実際に読んでみましたよ(あ、まだ、バートルビーのとこまでですけど^^;)。

それで、端的に言うと鋼鉄プリンさんの「責任倫理」の解釈の仕方はちょっと「恣意的」ではないか、あるいは「曲解」ではないかと思いました。言い換えると、杉田さんの言っていることは先日の書評会で僕が言っていたこととそれほど大差がなかったということ。

以下、それを示していこうと思います。


まず、プリンさんの「責任倫理」に対する反応を引用してみます。

これって重いよ……。

「よかれと思って」とか「善意の上での行動」に対して、その善意を免罪符的な、無条件肯定への切符とは認めないということ。

「純粋な気持ち」だろうがなんだろうが、結果に対する責任、そして“結果を出す責任”を取れと。

結果に対する責任、の方は、ちょっと「ハガレン」的ですね。

結果を出す責任、の方は、これ、「でも、実際には行動しない人」への、断罪。

もちろん、ガチで「実際に行動」してしまうと、自分の/家族の生活が崩壊してしまう。しかし、「自分の/家族の生活の維持」を理由に、私たちは(特に彼らに共感・同情する私たちは)行動しないことを許されるのか、という問いに、杉田は「んなわけねぇ」と答える*1

このように言及した後、プリンさんはすぐに「以下にそれが示されている」と付記した上で、本書の一部を構成している「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか?」を引用していることから考えて、上記の言及は赤木さんの「自分には他者と十分な議論をおこなう余裕、『考える』余裕自体がない、その『土台』(金や余裕)をこそ分配してくれ」という要求、とりわけ同要求に対するmojimojiさんの反応に関するものだと考えて差し支えないと思います。

それで、プリンさんはmojimojiさんの反応について本書から次のように引用しています。

しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある*2。mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)

 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです*3

ここだけ引用すれば、確かにプリンさんが考えるように、「家族のため」「今の生活を維持するため」という名目の下、経済的弱者に対する自らの財の再分配の可能性を一切考えないmojimojiさんに対して杉田さんがそれを厳しく非難しているように見えるし(僕自身、ここまではそのように読んで間違っていないと思います)、それゆえに杉田さんがmojimojiさんのような「勝ち組」に対して自らの生活の維持も厭わない再分配を要求しているように見えなくもありません(そして、そう読めるのなら、プリンさんの「責任倫理」に対する思い入れは妥当なものであると言えるでしょう)。

しかしながら、そのように考えると、上記の引用においてどうしても腑に落ちない部分が出てきてしまうのです。それは杉田さんの次のような言及。

滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。

つまり、杉田さん自身が「自分の生活を崩壊させても経済的弱者を支援せよ」という規範的言明を言いたいわけではないと言っているわけです。これは一体どういうことなのか。その答えはプリンさんが引用を端折った部分にあると僕は考えています。以下、プリンさんの引用の直後の部分を引用してみます。

mojimoji氏が何もしていない、とは全く思わない。ただ、「黙って死んでくれ」と書くにもかかわらず自らは真に「沈黙」できず、「何もしない」と明言するにもかかわらず言葉上で無償の「応答」だけはせずにいられない、その重層的な「弱さ」の中に最悪の罠がある、と思うばかりです。そして過去に一度でも「応答」した人間は、これとは別の論理と実行を探る以外ないのではないか*4

ここで「これとは別の論理と実行」と言った時の「これ」が差す内容とは、前の引用にもある「『家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない』という論理」のことでしょう。この論理を見直せと杉田さんは言っている、これは確かです。しかしながら、「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、捨てられない」という論理を見直すことは、「家族のため、親のためであっても今の生活水準維持を諦めることを厭わず、弱者に再分配せよ」という論理に直結するのか。僕はそうではないと思います。

むしろ杉田さんが「見直せ」というのは、上記のようなmojimojiさんを始めとする「勝ち組」の論理の背景にある「生活維持・再分配しない/生活崩壊・再分配する」という二元論的図式ではないか―なぜなら、このような二元論的図式を所与のものとすることが、「勝ち組」たちに自己正当化の余地を与えているのだから―そして、そのような見直しの上で、経済的弱者の惨状に対して「沈黙」を守ることができず、何らかの「応答」をした人間は皆(僕も含めて)、そのような自分の言葉と実行の一致を―決して達成し得ないものであったとしても―目指す「責任」があるのではないか、そう杉田さんは言いたいのではないでしょうか?このように考えれば、上記の引用にも出てきた杉田さんの言及がすっきりと腑に落ちます。

ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

このような僕の解釈が正しいとすれば、自分の生活を投げ打つことはできないという「弱さ」を抱えながらも、できる限り「貧困」について考え、それを実行していく姿勢を大事にしたいという僕の姿勢は、杉田さんのそれと大差ないように思います。その限りにおいて、僕にはもはや杉田さんの言う「責任倫理」に反発する理由はありません。

因みに余談ですが、この「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか?」という文章の主なテーマは鋼鉄プリンさんが引用していたような再分配に関する部分ではないように思います。むしろこの文章のテーマは「戦争希望」を謳っておきながら、「『しかし、それでも」、『それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても』、他人が戦争で苦しむのを見たくはない」*5とする赤木さんの「優しさ」や、赤木さんとそのご両親との確執から赤木さんの「抽象的な戦争希望」を紐解こうとすることなのであって、その観点からも鋼鉄プリンさんの感銘の受け方はちょっと「不自然」なのではないかと感じました。もちろん、「不自然」だから悪いと言っているのではありませんが、それが上記のような「曲解」につながったのではないかとちょっと考えたりします(もちろん、僕の方が「曲解」である可能性も未だに捨てきれませんが(ボム))。


まあ、何はともあれ、この本は結構面白いです。少なくとも『フリーターにとって「自由」とは何か』よりもこっちの方が好きかも。全体の感想は、また全部読み終わってから書こうと思います。


追記(6/12):鋼鉄プリンさんがこの応答に対するさらなる「応答」をしてくれたようなので、そのURLを貼っておきます。

http://d.hatena.ne.jp/ashborn188/20080611/1213165938

そして、先ほど、そのエントリーのレスでさらなる『応答』をやってきました(笑)。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ashborn188/20080602/1212410435より。

*2:ここでの杉田さんの言及は、次のようなmojimojiさんの赤木さんに対する言葉を受けたもの。「〔負け組は〕黙って逝くのが正しいとか正しくないとか、そのことを評価する資格は、生き残る〔勝ち組の〕僕にはない。ただ、感謝するだけである。そして、僕らにできることは、このような悲劇的な世界を作りかえる仕事に力を注ぐだけである。・・・・・・では、僕ならどう答えるだろうか。黙って死んでくれ、と頼む以外のことは言えないだろう。彼がそれは飲めない、と考え、僕のもとへ奪いにやってくるとしても、それを不正だと言える根拠は、僕の生きているこの世界にはない。僕らは、否応なしに、奪い奪われる関係の中に生きさせられている。奪いに来る者に対しては、それが正しいとか正しくないとか言うことなく、ただ、全力で迎え撃つ。それだけだ。彼が、奪いに来るのではなく、ただ黙って『死に行く』のであれば、僕はそれを感謝し、ただ、弔う」(「『勝ち組』からの応答―赤木論文を検討する」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070322/pl)。因みに、mojimojiさんはどっかの経済学者、つまり「勝ち組」である。杉田さんが指摘するように、この言葉からはmojimojiさんが「奪われる」ことを本気で想定していないように見える。

*3:本書46-47頁。引用自体は鋼鉄プリンさんのブログ(前掲URL)から。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*4:本書47頁。イタリック体は引用者による。

*5:本書48頁。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

〈帝国〉における難民(1)

土佐弘之のとある論文から。

難民は、主権国家の排除項というより、『長い二一世紀』システムの中心部ないし(ポストモダン的)《帝国》の排除項といった性格を持つようになってきている。国内避難民の現象に看守できるように、先進資本主義諸国の脱福祉化に伴う国際経済体制のネオ・リベラル化は、『強いられた移動』を不可避とするような状況を産み出しながら、同時に『出口なし(受け入れ先なし)』の状況を作り出していっている。しかし、〈他者に対する責任〉の再領域化といった現象とともに、グローバリゼーションは、特にメディアを介して〈他者に対する責任〉の脱領域化(遠隔地の悲劇へのエンパシー)といった現象も生じさせている。そこで、〈他者に対する責任〉の脱領域化といった表面上の装いをとりながら、実質的に再領域化の動きになっているものとして、『新しい人道主義』と言われるような現象が現れてきている*1

国際経済体制のネオリベラル化を促進する〈帝国〉的主権は、一方で難民にフレキシブルな移動を強いながら、他方で「人道主義」=〈他者に対する責任〉の脱領域化を標榜した軍事的介入・経済支援によって「難民の封じ込め」をはかる=〈他者に対する責任〉を再領域化しようとしている、その意味で、難民はもはや主権国家国民国家の排除項というよりは、〈帝国〉の排除項と言えるのではないか、ということである。

ネグリ=ハートが

生命の再生産はグローバルな空間の階層秩序を維持し、資本の政治的秩序の再生産を保証すべく調整されなければならないのだ。おそらくこれはもっとも基礎的な生権力の形態である*2

と述べるように、〈帝国〉の生-権力の形態の一つを、資本による富の搾取構造を維持するという目的にそぐう形での人々の生命の管理に見出せるとするならば、〈帝国〉の排除項としての難民の封じ込めはそのような生-権力による管理の究極的な形象であると言えるだろう。

国民国家批判の文脈でのみ難民問題を捉えようとする試みには、あまりにも死角が多すぎる。

*1:土佐弘之(2002)「《条件付き歓待》の国際政治学 国際難民レジームの危機との関連で」『現代思想』第30巻第13号,100頁。

*2:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2004)『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』幾島幸子訳,日本放送出版協会,272頁。

チェックしたい文献(1)

Michael Dillion,"The Scandal of the Refugee: Some Reflection on the "Inter" of Intaernational Relations and Continental Thought",in Moral Spaces:Rethinking Ethics and World Politics. edited by David Campbell and Michael Shapiro. Minneapolis: University of Minnesota Press, 1999, pp.92-104.

「難民は、意味の深刻な不安定さを呼び起こすという点で哲学にとってスキャンダルであり、難民の登場は、政治的秩序形成に対する非難を意味するという点で政治にとってもスキャンダルである」。

追記:先生のご尽力のおかげで、今日、図書館に行ってコピーして来ることができました。IZUMI先生、ありがとうございます。O崎先生に「圧力」をかけられた(苦笑)ことですし、今年度はK山君やN津君に負けないよう、必要に応じて外語文献にもきっちり当たって行こうと思います。