難民問題に関する先行研究批判(2)

本屋でふと見かけた萱野稔人の『国家とはなにか』の一節より(因みに、この本、久々に「衝動買い」してしまいました(苦笑))。

国民国家批判が正当にも指摘するように、国民国家の形態は近代をつうじて形成されてきたものであるならば、それ以前には国民的ではない国家が存在したはずであるし、また今後、存在しうるはずである。実際、暴力にもとづいた接続的な支配があれば、国民や共同体の有無にかかわらず国家は成立する。/だが、当の国民国家批判には、国民形態以外の国家のあり方を思考する視座がほとんどない。だからこそそれは、グローバリゼーションとよばれる現象によって、既存の国民形態をささえていたいくつかの制度が機能不全におちいると、それを国家そのものの解体の兆しと取り違えてしまうのである。じっさいには、これまでとは異なる国家のあり方が出現しつつあるだけなのだが*1

この萱野の言及は、以下のようなブルデューの引用を受けてなされているものである。

国家について思考しようとすることは、国家の思考をみずからに引き受け、国家によってつくられ保証された思考のカテゴリーを国家にあてはまえること、したがって、国家に関するもっとも基本的な真理を誤認する危険をおかすことである。・・・・・・われわれが世界のあらゆる事象に自発的にあてはめる思考カテゴリーを・・・・・・つくり上げ押しつけることこそ、国家の主要な力の一つであり、われわれは国家から与えられた思考カテゴリーを国家そのものにあてはめていることを理解する・・・・・・・*2

つまり、ここで萱野の言わんとすることは、国民国家を批判しようとする論者は、国民国家の論理が与える思考の枠組を所与のものとしながら批判を展開しなければならないがゆえに、しばしば国民国家のプロトタイプを自明視してしまいがちだ、ということである。そして、グローバリゼーションという現象を国民国家の「衰退」と捉える言説が根強いのも、上記のように国民国家のプロトタイプを自明視する結果にほかならないと言うのである。

このことは、「難民」を国民国家批判という文脈でのみ、捉えようとする先行研究にも言えるのではないだろうか。

たとえば、そのような議論の典型として、このブログでもしばしば取り上げてきた上野成利は、国民国家体制を基礎付ける近代政治の文法が、「生まれ」の論理を上書きされることで「国民」と同一視されるようになった「人間」と主権国家体系や限定戦争を可能にした「ヨーロッパ公法」が内包する「ヨーロッパ」という「領域性」の二つの要素によって成り立っていたことを、前者についてはフーコーアレントアガンベンに、後者についてはシュミットにそれぞれ言及しながら、指摘する。そして、19世紀以降、欧米列強がこぞって帝国主義政策を取ったことによって主権国家体系に広大な植民地が取り込まれて「ヨーロッパ公法」の基盤たる「ヨーロッパ」という「領域性」が失われ、限定戦争から絶対戦争=総力戦への移行が起こった結果、そのような総力戦を契機により純化した国民国家が、その包摂-排除機能を、「生まれ」の論理に基づいて「生きさせる」存在としての「国民」と「死の中へ廃棄する」存在としての「非-国民」の選別機能を強化したことで、大量の難民が生み出されることになったと述べる。

上野は上記のようにして生み出された難民を、次のように述べながら、国民国家体制が孕む矛盾を逆照射する形象であるとしている。

近代国民国家を構成しているのは一見すると、純粋に法学・政治学的カテゴリーとしての『国民であるようにみえるけれども、この「国民」には生物学的な生命としての「人間」が確実に書き込まれているということ−この「国民=人間」の重ね書きのトリックが、難民のような存在者からいわば逆照射されるわけである*3

しかしながら、先述の萱野の指摘と照らし合わせた時、この上野の議論もまた「国民=人間=生きさせる存在/非-国民=非-人間(難民)=死の中へ廃棄する存在」という国民国家の論理を所与のものとするがゆえに国民国家というあり方を自明視してしまい、その結果として「難民」という概念を国民国家との連関性の中に閉じ込めてしまっていると言えるのではないだろうか*4

先日、「難民問題に関する先行研究批判(1)」(http://d.hatena.ne.jp/Foucaultlian/20080302/1204482696)というエントリーで、ポストモダニズムの言説に基づく国民国家批判が〈帝国〉的主権と共犯関係にあることを指摘するネグリ=ハートの議論を引用していたが、そうだとすれば、今我々に必要なのは、国民国家批判の文脈から「難民」という概念を解き放ち、あらゆる国境、差異を脱領域化/再領域化しながら編成される搾取の構造を、第一世界/第三世界という二項対立を超えてモザイク状に散在する「貧困」の様態を再政治化し、捕捉し得る政治用語として再定義することであると言えるだろう。

その際、「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という、国籍の有無や居住地の如何を問わない日本語の「難民」という言葉の元々の意味から出発する市野川容孝の議論は大変示唆的である*5

より具体的に言えば、市野川の議論は、「『難民』という言葉が何を意味してきたのか、何を意味しうるのか」*6という問いを主題に据えて、上記の日本語における意味を出発点としながら「社会学的文献学」と呼ばれる方法論を用いて「難民」という概念を国民国家批判の文脈から鮮やかに解き放つものであり、これは僕の問題意識とも大いに重なっている。

しかしながら、そのような市野川の議論にも以下に示すような二つの問題点がある。

一つ目の問題点は、市野川自身が自ら指摘する以下のような記述にある。

しかし、このような分析(日本語に基づく社会学的文献学という方法論をとる分析)は、ある意味で全くの茶番である。なぜか。パレスチナ「難民」と、日本語でそう呼ばれる人びとが、自分たち自身を自分たちの言葉でどう呼んでいるのか、全く考えていないからである。それを考えない日本語の一人相撲、いやナルシシズムは、まさにサイードの言う「オリエンタリズム」、すなわち一方には、自分たちが何者かを自分では言い表せず、無言で横臥したまま、ただ「提起」するだけのオリエント、他方には、そのオリエントに成り代わって、オリエントの謎を「解決」する西洋、という代理表象の構図を(今沢紀子訳『オリエンタリズム』上巻,平凡社,1993年,317頁)、今度は西洋(英語)に成り代わって、再生産するにすぎないだろう*7

この記述の前では「パレスチナ難民」の問題について、日本語の「難民」の定義を元にした「社会学的文献学」の議論が展開されているのだが、そういった方法論を取るがゆえに、サバルタンとしての「パレスチナ難民」を日本語をもって代弁するという、オリエンタリズム的構図が成立してしまっているのではないか、と市野川は自省するのである。このような問題点は、何も「パレスチナ難民」を論ずる場合のみに妥当するものではなく、「社会学的文献学」という方法論一般に共通するものであろう。

二つ目の問題点は、市野川の議論が「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という日本語の元々の語義を前提に据えるがゆえに、国民国家批判という文脈でしか「難民」という概念を捉えようとはしない論者たちを「外在的」にしか批判し得ないのではないか、という点である。つまり、「我々はそのような『難民』の定義を共有することはできない」と言われてしまえばそれまで、ということだ。

したがって、僕は市野川と問題意識を共有しながらも、彼とは別の方法で「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という広義の「難民」の定義へと辿り着こうと考えている。その時、鍵になるのが、昨年度の論文において示した「二分法を超える生-権力解釈」である。つまり、「難民」を国民国家批判の文脈で捉える論者の大半がその理論的基盤に据えるフーコーの生-権力論を、昨年度の論文を参照しながら刷新することによって、いわば彼らの議論に「内在」しながら「何らかの理由で生活上の大きな困難に直面している人びと」という定義へ辿り着いてやろう、というわけだ。まあ、この点についてはもう少し考えが詰まってから、また後日にということで。

  • 追記(8/4):IZUMI先生のアドバイスに対する応答です。

「難民」を論じることで「国家」の論点を示唆する方向でいくのか、それとも「国家」を真正面からとりあげるのかで、かなり展開はちがうでしょう。
そもそも「政府」ではなく「国家」ならば、区別と定義を、どう考えるのか、それ自体がかなりややこしい。
グローバル化のみならず、EUや「分権化」のようなものを「国民国家」の「解体」論とどう関係させるのか。
やはり「国家」を正面に据えると、「小論」では論じきれないような気もしますが、どうでしょうね。

このエントリーで言えば、前者は国民国家批判の文脈の下で「難民」を捉える議論に、後者は『国家とはなにか』における萱野さんの議論に類似している*8と言えると思いますが、僕自身の問題意識としては、「国家」をめぐる議論に付随する概念ではないものとして「難民」という言葉そのものを捉え返したいと考えているので、どちらの方向性とも大分趣を異にしているんじゃないかなぁと思っています。萱野さんを引用したのは、彼の国民国家批判に対する批判の視座が使えそうだなと思ってのことであって、「国家」そのものを検討しようとする議論に興味を持ったから、というわけではありませんでした(実はまだ、引用した箇所付近と冒頭しか読んでないですしね(ボム))。

プリンさんとは違って、あまり作業の進行状況等をブログに公開しないので、先生には色々とご心配をお掛けしているかも知れませんが、8月後半の合宿までには何とか「はじめに」から「先行研究整理」くらいまでは書き上げられそうな気がするので、首を長くして待っていて頂ければ^^;

*1:萱野稔人(2005)『国家とはなにか』以文社,142頁。

*2:ピエール・ブルデュー(2001)「国家精神の担い手たち」三浦信孝訳『環』第5巻,98頁。ただし、萱野,141頁よりそのまま引用した。

*3:上野成利(2006)『暴力』岩波書店,17頁。

*4:実際、グローバル化にともなって国民国家の機能は「低下」したとする、次のような記述からも上野が国民国家モデルを無意識のうちに自明視していることが読み取れる。「(近代政治の文法が孕む矛盾による国民国家の機能不全や20世紀後半のグローバル化の進展に触れた上で)つまり国民国家は、その量的な拡大とまさに軌を一にするようにして、質的な重みを相対的に低下させていったのである」(上野,47頁,括弧内引用者)。

*5:市野川容孝(2007)「難民とは何か」市野川容孝・小森陽一『難民』岩波書店,73-176頁参照。

*6:市野川,73頁。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*7:市野川,107頁,括弧内引用者。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*8:萱野は同書のテーマについて次のように述べている。「国家とはなにか。国家などというものがなぜ存在しているのか。そもそも国家が存在しているというのはどういうことなのか」(萱野,4頁)。