これが「正しい」戦争というものか!さあ、もう一度!(ボム)

マイケル・ウォルツァー(2008)『戦争を論ずる―正戦のモラル・リアリティ』駒村圭吾他訳,風行社より。

私たちはみな、戦争を論ずるべきであり、民主主義国家に生きる市民にとってそれは政治的責務(political obligation)にほかならない、この本で私が主張したいことはこのことです。世界史を見れば、私たちは戦争で物事を解決することに反対すべきである多くの事例を学びますが、ときには戦争を肯定的に論じなければならない(と私が考える)事例も存在しております。・・・・・・暴虐な(そしてときに狂っている)専制者、破綻国家や反目し合う好戦的な支配層、宗教的狂信主義や民族浄化、大量虐殺、武器の自由市場、生物化学兵器や核技術の管理不能な拡散などにより蝕まれている世界においては、武力行使をいかなる場合であれ拒絶しようとすることは、憎悪や破壊、死に対するある種の幸福のようなものです。かかる幸福は、これら悪を行う者たちに対する道徳的に正当化された対応ではありません。もし私たちが自分自身のため、そして、現代世界において最も傷つきやすい人々のためにも最低限の安全保障を確立したいと願うのであれば、誰かが(ときには)戦う用意をもたなければなりません*1

もう、ネタにしか読めないお( ^ω^)
というか、「暴虐な(そしてときに狂っている)専制者、破綻国家や反目し合う好戦的な支配層、宗教的狂信主義や民族浄化、大量虐殺、武器の自由市場、生物化学兵器や核技術の管理不能な拡散などにより蝕まれている」って、アメリカ人たるウォルツァーの自虐ネタかお( ^ω^)


さらに、道徳理論に依拠する正戦論が内包する諸概念は単なる「ブラック・ボックス」じゃないか、というポストモダニストからの批判に対するウォルツァーの返答。

彼ら(ポストモダン左派とウォルツァーが呼ぶ人々)は、正義を認めることは偽善であると主張しているわけではない。偽善性を批判するには基準の存在が前提されているからである。むしろ、彼らは、基準などは存在せず、したがって、正戦論の諸概念を客観的に使用することなど不可能であると、と主張するのである。・・・・・・このような見解を、私たちに差し迫った状況に沿って表現するならば、次のようになる。「ある者にとってのテロリストは、別の者にとっては自由の戦士である。」この見解によれば、どちらの側につくかという選択をする以外に理論家や哲学者にとってなすべきことはない。しかも、その選択を指導する理論や原理は存在しない、ということになる。だが、このポストモダン左派の立場は、不可能な立場である。というのは、この立場は、無辜の人々の殺害を、私たちは、認識することも、非難することも、積極的に反対することもできない、とみなすからである*2

この批判における論理の飛躍にはもはや呆然とするしか・・・(j・ボム)。

まず、「ポストモダン左派」って何なんだよみたいな(苦笑)。このウォルツァーの批判はあらゆる倫理的・道徳的価値を認めない「究極の相対主義」の立場を取る論者にしか通用しないけれども、そんな論者なんて、ポストモダニストの中では一部だし。それなのに、「究極の相対主義者」の形象をもって「ポストモダン左派」を一括りにし批判するのはあまりにも暴論的過ぎる。

そもそも、ポストモダン的言説を用いて正戦論を批判する論者の議論は、正戦論が依拠する道徳的諸概念には「普遍性」などあり得ず、解釈次第ではいかようにも言える「ブラック・ボックス」に過ぎないから、そういう概念でもって戦争を正当化するのは結局体制による侵略戦争にお墨付きを与えることにつながりかねない、といった類のものだ*3。だから、「ある者にとってのテロリストは、別の者にとっては自由の戦士である。」というポストモダン的見解から、「どちらの側も一緒ということだから、問題はどっちにつくかということだけ」という帰結を見出すウォルツァーの議論は上記のような「ポストモダン左派」の批判の文脈を無視するものに他ならない。要は、批判しやすいように「ポストモダン左派」の言説を歪曲しているようにしか見えないということだ。


あーあ、施先生の授業でコミュニタリアンとして紹介されていた時のウォルツァーは比較的面白かったのに、正直失望だお( ^ω^)
こんな本、3000円近くも出して買うもんじゃないお( ^ω^)
最後まで読むのが激しくめんどいお( ^ω^)
おっおっおっ( ^ω^)

*1:本書酛頁。

*2:本書26頁。

*3:たとえば、フーコーを中心にポストモダニズムに依拠する政治理論家である杉田敦はウォルツァーの正戦論を評して次のように述べている。「今日の世界では、何が戦争であり、何が犯罪であり、何がテロであり、何が正義であり、何が悪であるかは、経済的・軍事的影響力を有する特定の勢力が勝手に決められるという慣行が確立しつつある。ウォルツァーの正戦論は、そのような事実上行われる定義に、一種のお墨付きを与えるものとして、利用され続けることだろう」(杉田敦(2005)『境界線の政治学岩波書店,170頁)。