「語りえぬもの」の抑圧

「語りえぬもの」抑圧するという議論はしばしばなされてきた。たとえば、「語りえぬもの」としてのサバルタンを西欧言語が代弁・表象するという図式の暴力性を暴露したサイードの「オリエンタリズム」はその典型だ。しかし、ここでは「語りえぬもの」我々を抑圧するということについて考えたい。

たとえば、「人間みがない」「心が冷たい」といった表現はその典型だろう。ここでは「人間」「心」といった言葉の意味内容が所与のものとされているわけだが、おそらく発言者に「『人間』って何?」「『心』って何?」と問うたとしても、「なんとなく分かるだろう!」程度の解答しか返ってこないはずだ(無論、僕もそれ以外の解答を用意できる準備はない)。しかしながら、「なんとなく分かるだろう」程度のもので自らの「非-人間」性を糾弾されるとすれば、そんな理不尽なことはない。というよりも、我々は本当に「何となく分かっ」っているのだろうか?

この問題は、「語りえぬもの」としての「私的対象」を記述する、いわば「私的言語」が存在するか否かという議論に置き換えることができるだろう。以下、「私的言語」について、野矢茂樹の議論を引用しながら考えてみる。

野矢は「私的言語」の問題を考えるに当たって、思考実験としてある一人の子供の例を挙げる。この子供はある日、彼の知っている日本語では何と表現したらよいか分からない体験・感覚に襲われ、それを「トカトントン」と名付ける。つまり、彼は言語を媒介した他者との実践連関からは独立の体験、「私的対象」を、「トカトントン」という「私的言語」をもって記述しているというわけだ。しかし、これは果たして「記述」したと言えるのだろうか。このことについて、野矢は次のように述べている。

ある日、「トカトントン」という名前を定義した。そして次のときに、「またトカトントンだ」と記述する。何をやっているのか。これで体験記述したことになるのだろうか。/まったく同じ状態が訪れたのではないことに注意しなければならない。以前の「トカトントン」といまの「トカトントン」はまったく同じものではない。それはおそらく質的にも多少は異なっているだろう。・・・・・・いや、多少の違いは気にしないことにするのだ、言われるだろうか。まったく同じではないが、似ているから、これも「トカトントン」なのであり、「タカタンタン」ではないのだ、と。だとすれば、それもまた「トカトントン」の定義にほかならない。つまり、二度目のそのとき、それもまた「トカトントン」に含めるということを定義したのである。・・・・・・いつまでも定義を繰り返さなければならない。私がやっていることは、つねに「これを『トカトントン』と呼ぼう」と定義しているにすぎない。体験記述の見かけをもつそれは、実は、「トカトントン」の定義という果てしない作業の泥沼であり、いつまでたってもその意味は確定しないのである*1

つまり、最初の「トカトントン」と二番目の「トカトントン」、三番目の・・・は全て異なっているはずであり、それらを全て「トカトントン」と記述しようとすることは実は「トカトントン」の定義を果てしなく繰り返すことに他ならない、ということである。これは、あらゆる「トカトントン」が同じものであったとしても事情は変わらない。なぜならば、「同じ」ということは何らかの基準を参照しながら用いられる言葉であるが(たとえば、「柴犬とブルドックは犬としては同じ」と言う時に、「犬」という基準を参照しているように)、「トカトントン」の場合、参照基準が「トカトントン」自身であるため、「同じ」ということの認定が「トカトントン」それ自体の定義と連動してしまうからだ。

以上の事柄を考慮すると、結局のところ、「私的言語」はなんでもありの、誤りがないものということになってしまう。それは誤りが存在しない以上、記述とは呼べない。これについて、野矢は次のように述べる。

私的言語における実情は、ただ、ある状態になると私は「トカトントン」と言いたくなる、というものにすぎない。誤りえないものは記述ではない。それはたんにある状態に促された「うわごと」にすぎない。一見言語の見かけをしていても、実はまったく言語ではないのである。・・・・・・とすれば、私的言語が実はいささかも言語ではなかったということは、すなわち、「私的対象」なるものも、実はいささかも対象ではなかったということを意味している。そこには、対象が対象として成立するために要求される同一性が決定的に欠けている。/私的対象など、存在しない*2

つまり、「トカトントン」を永遠に定義し続けるがゆえに同一性を担保できないのが「私的言語」であるため、「私的対象」も同一性を担保できていない、つまりそれは対象として成立していない、ということである。それゆえ、野矢は「私的対象など、存在しない」と断定するわけだ。

以上の野矢の議論を踏まえれば、先に示した「人間」「心」の意味内容を我々が「何となく分かっている」というのも、欺瞞に他ならないと言えるだろう。我々は、それらの言葉の意味内容を他者との実践連関の中で言語化しない限り、その同一性を担保することができず、そうである以上、そもそもその意味内容は存在しないということになるのだから。

そして、このような「語りえぬもの」の欺瞞が、しばしば「非-人間的」「非-理性的」という形で多くの人々を抑圧してきたことを、ここで思い出さなければならない*3。我々は、これらの「語りえぬもの」の欺瞞が引き起こした惨劇を再び繰り返さぬためにも、「語りえぬ」という地点に安住してはならない。常に、「語りえぬもの」に対して懐疑の目を向け、それを言語化する努力を惜しんではならないのだ*4

もう一度、自戒を込めて書き留めておこう。

我々は「語りえぬ」という地点に安住してはならない、絶対に。

*1:野矢茂樹(1999)『哲学航海日誌』春秋社,53-55頁。

*2:野矢,56-57頁。

*3:ここで意識しているのは、何も「狂人」「精神病者」だけではない。そのような人々でなくとも、日常生活の中で「人間みがない」「心が冷たい」という言葉の孕む暴力性に直面した経験のある人は多いはずだ。かく言う僕もまた・・・。

*4:念のために言っておくと、僕は「語りえないこと」を糾弾したいのではない。僕自身、ふとした時に感じるあらゆる感覚や違和感を言語化できているわけではないから。むしろ、ここで批判したいのは、それらの感覚や違和感を言語で表現する努力をしない、あるいは表現したとしても極めて曖昧な仕方でしかないにも関わらず、それを理解しない「他者」を批判しようとするその姿勢である。そのような姿勢を示す人に対して、恐らく僕は次のように言うだろう。「あなたが言う『語りえぬもの』というのは、そもそもあなた自身が理解できていない、いや、むしろ存在していないものではないのか?」と。