「ハイパー近代」の試金石としてのチベット

土佐弘之(2008)「方法としてのチベット」『現代思想』第36巻第9号,24-32頁より。

経済的な側面に限って言えば、既に、「西洋をもう一度東洋によって包み直す」動きが見られるという説もある。・・・・・・しかし、最近のネオリベラルな中国資本主義の興隆が示していることは、むしろ東洋が西洋に完全に包み込まれていく過程として見た方が妥当と思われる。つまり、たとえパワーの中心が西から東へ移っていったとしても、世界秩序そのものは根本的には変わらず、ネオリベラルな世界秩序がより浸透・拡大していくことになるのではないかということである。ある意味では、それは、近代の超克とはほど遠い、欧米的ハイパー近代を複製する道である。当然、それは、近代の矛盾をも複製する道でもある。その複製された矛盾が幾重にも折り重なっている問題の一つとしてチベット問題を位置付けて考えることが可能ではないだろうかというのが本稿の問題提起である。*1

アレントが指摘した国民国家体系が生み出す「難民」という矛盾やネオリベラリズムの放縦によって出現しつつある〈帝国〉的主権など、「ハイパー近代」が孕む諸々の論点がチベットに凝縮されているのではないか、という指摘。

チベットを通してグローバル化やポスト近代が孕む問題点を考えるみたいな論文も面白いのかも知れませんね(もちろん、今年度の僕の主題ではないですが(ボム))。

*1:土佐、26頁。