鋼鉄プリンさんへの応答―杉田俊介『無能力批評』について

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

杉田俊介(2008)『無能力批評 労働と生存のエチカ』大月書店、実際に読んでみましたよ(あ、まだ、バートルビーのとこまでですけど^^;)。

それで、端的に言うと鋼鉄プリンさんの「責任倫理」の解釈の仕方はちょっと「恣意的」ではないか、あるいは「曲解」ではないかと思いました。言い換えると、杉田さんの言っていることは先日の書評会で僕が言っていたこととそれほど大差がなかったということ。

以下、それを示していこうと思います。


まず、プリンさんの「責任倫理」に対する反応を引用してみます。

これって重いよ……。

「よかれと思って」とか「善意の上での行動」に対して、その善意を免罪符的な、無条件肯定への切符とは認めないということ。

「純粋な気持ち」だろうがなんだろうが、結果に対する責任、そして“結果を出す責任”を取れと。

結果に対する責任、の方は、ちょっと「ハガレン」的ですね。

結果を出す責任、の方は、これ、「でも、実際には行動しない人」への、断罪。

もちろん、ガチで「実際に行動」してしまうと、自分の/家族の生活が崩壊してしまう。しかし、「自分の/家族の生活の維持」を理由に、私たちは(特に彼らに共感・同情する私たちは)行動しないことを許されるのか、という問いに、杉田は「んなわけねぇ」と答える*1

このように言及した後、プリンさんはすぐに「以下にそれが示されている」と付記した上で、本書の一部を構成している「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか?」を引用していることから考えて、上記の言及は赤木さんの「自分には他者と十分な議論をおこなう余裕、『考える』余裕自体がない、その『土台』(金や余裕)をこそ分配してくれ」という要求、とりわけ同要求に対するmojimojiさんの反応に関するものだと考えて差し支えないと思います。

それで、プリンさんはmojimojiさんの反応について本書から次のように引用しています。

しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある*2。mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)

 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです*3

ここだけ引用すれば、確かにプリンさんが考えるように、「家族のため」「今の生活を維持するため」という名目の下、経済的弱者に対する自らの財の再分配の可能性を一切考えないmojimojiさんに対して杉田さんがそれを厳しく非難しているように見えるし(僕自身、ここまではそのように読んで間違っていないと思います)、それゆえに杉田さんがmojimojiさんのような「勝ち組」に対して自らの生活の維持も厭わない再分配を要求しているように見えなくもありません(そして、そう読めるのなら、プリンさんの「責任倫理」に対する思い入れは妥当なものであると言えるでしょう)。

しかしながら、そのように考えると、上記の引用においてどうしても腑に落ちない部分が出てきてしまうのです。それは杉田さんの次のような言及。

滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。

つまり、杉田さん自身が「自分の生活を崩壊させても経済的弱者を支援せよ」という規範的言明を言いたいわけではないと言っているわけです。これは一体どういうことなのか。その答えはプリンさんが引用を端折った部分にあると僕は考えています。以下、プリンさんの引用の直後の部分を引用してみます。

mojimoji氏が何もしていない、とは全く思わない。ただ、「黙って死んでくれ」と書くにもかかわらず自らは真に「沈黙」できず、「何もしない」と明言するにもかかわらず言葉上で無償の「応答」だけはせずにいられない、その重層的な「弱さ」の中に最悪の罠がある、と思うばかりです。そして過去に一度でも「応答」した人間は、これとは別の論理と実行を探る以外ないのではないか*4

ここで「これとは別の論理と実行」と言った時の「これ」が差す内容とは、前の引用にもある「『家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない』という論理」のことでしょう。この論理を見直せと杉田さんは言っている、これは確かです。しかしながら、「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、捨てられない」という論理を見直すことは、「家族のため、親のためであっても今の生活水準維持を諦めることを厭わず、弱者に再分配せよ」という論理に直結するのか。僕はそうではないと思います。

むしろ杉田さんが「見直せ」というのは、上記のようなmojimojiさんを始めとする「勝ち組」の論理の背景にある「生活維持・再分配しない/生活崩壊・再分配する」という二元論的図式ではないか―なぜなら、このような二元論的図式を所与のものとすることが、「勝ち組」たちに自己正当化の余地を与えているのだから―そして、そのような見直しの上で、経済的弱者の惨状に対して「沈黙」を守ることができず、何らかの「応答」をした人間は皆(僕も含めて)、そのような自分の言葉と実行の一致を―決して達成し得ないものであったとしても―目指す「責任」があるのではないか、そう杉田さんは言いたいのではないでしょうか?このように考えれば、上記の引用にも出てきた杉田さんの言及がすっきりと腑に落ちます。

ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

このような僕の解釈が正しいとすれば、自分の生活を投げ打つことはできないという「弱さ」を抱えながらも、できる限り「貧困」について考え、それを実行していく姿勢を大事にしたいという僕の姿勢は、杉田さんのそれと大差ないように思います。その限りにおいて、僕にはもはや杉田さんの言う「責任倫理」に反発する理由はありません。

因みに余談ですが、この「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか?」という文章の主なテーマは鋼鉄プリンさんが引用していたような再分配に関する部分ではないように思います。むしろこの文章のテーマは「戦争希望」を謳っておきながら、「『しかし、それでも」、『それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても』、他人が戦争で苦しむのを見たくはない」*5とする赤木さんの「優しさ」や、赤木さんとそのご両親との確執から赤木さんの「抽象的な戦争希望」を紐解こうとすることなのであって、その観点からも鋼鉄プリンさんの感銘の受け方はちょっと「不自然」なのではないかと感じました。もちろん、「不自然」だから悪いと言っているのではありませんが、それが上記のような「曲解」につながったのではないかとちょっと考えたりします(もちろん、僕の方が「曲解」である可能性も未だに捨てきれませんが(ボム))。


まあ、何はともあれ、この本は結構面白いです。少なくとも『フリーターにとって「自由」とは何か』よりもこっちの方が好きかも。全体の感想は、また全部読み終わってから書こうと思います。


追記(6/12):鋼鉄プリンさんがこの応答に対するさらなる「応答」をしてくれたようなので、そのURLを貼っておきます。

http://d.hatena.ne.jp/ashborn188/20080611/1213165938

そして、先ほど、そのエントリーのレスでさらなる『応答』をやってきました(笑)。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ashborn188/20080602/1212410435より。

*2:ここでの杉田さんの言及は、次のようなmojimojiさんの赤木さんに対する言葉を受けたもの。「〔負け組は〕黙って逝くのが正しいとか正しくないとか、そのことを評価する資格は、生き残る〔勝ち組の〕僕にはない。ただ、感謝するだけである。そして、僕らにできることは、このような悲劇的な世界を作りかえる仕事に力を注ぐだけである。・・・・・・では、僕ならどう答えるだろうか。黙って死んでくれ、と頼む以外のことは言えないだろう。彼がそれは飲めない、と考え、僕のもとへ奪いにやってくるとしても、それを不正だと言える根拠は、僕の生きているこの世界にはない。僕らは、否応なしに、奪い奪われる関係の中に生きさせられている。奪いに来る者に対しては、それが正しいとか正しくないとか言うことなく、ただ、全力で迎え撃つ。それだけだ。彼が、奪いに来るのではなく、ただ黙って『死に行く』のであれば、僕はそれを感謝し、ただ、弔う」(「『勝ち組』からの応答―赤木論文を検討する」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070322/pl)。因みに、mojimojiさんはどっかの経済学者、つまり「勝ち組」である。杉田さんが指摘するように、この言葉からはmojimojiさんが「奪われる」ことを本気で想定していないように見える。

*3:本書46-47頁。引用自体は鋼鉄プリンさんのブログ(前掲URL)から。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。

*4:本書47頁。イタリック体は引用者による。

*5:本書48頁。ただし、原文で傍点が付いている部分についてはイタリック体にした。