酒井隆史(2001)『自由論 現在性の系譜学』青土社

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

2009年11月23日のエントリー酒井隆史について「このブログでも書評を書いた」と書いていましたが、実は書評自体は以前に書いていたもののアップしていなかったということが判明したので、取り急ぎ作成致しました。どうぞご参照ください。

私たちが自らの経験を構築するさいに用いるイディオムや語彙は、ここ十年あたりをとってみても大きく変わってしまった。その多くは「ニューライト」「ネオリベラリズム」と呼ばれている知の問題設定に属するものである。しかもそれはサッチャーレーガン「革命」のように多かれ少なかれドグマティックな教義による「一撃」として経験されるよりは、「なし崩し」の連続を重ねながらじわじわとヘゲモニーを掌握してきたように見える。そのヘゲモニーの移行と、そのイディオム、語彙の怒涛のような攻勢に、いつのまにかなし崩しに「無効」とされてしまった理念や理論は数多い。……こうした「なし崩し」の積み重ねは、きっと私たちの無力あるいは無力感を高めるよう機能しているにちがいない。/本書では、そのような無力感を少しでも解きほぐしたかった。端緒の発想は単純なものである。外から押しつけられた力にわけもわからず転がされ右往左往する、といった事態はやっぱりいやだ、というものだ(転がされるにしても少しは転がされる意味がわかっていたほうがいい)。いま私たちの身体をどのような力が貫いているのだろうか、私たちの身体はどのように変容を遂げようとしているのか?*1

重田園江、金田耕一、斎藤純一、渋谷望など、数々の著名な研究者を輩出してきた藤原保信門下の若手フーコー研究者の著作。特に、『魂の労働』の著者でもある渋谷望とは大学院時代の同級らしく、本書のテーマは『魂の労働』に重なる部分が大きい。

本書の試みは、「いまなにが起きているのか」「いまの私たちを構成し、諸々の経験を自明なものとして定着させている力とはいかなるものだろうか」「私たちはどうしてつい最近まで自明ではなかったかくかくのことを自明のものとしてしまったのだろうか」といった問いをめぐって、権力論の視点からアプローチすることである。そして、このようなアプローチにおいては、必然的に「ニューライト」「ネオリベラリズム」「ポスト・フォーディズム」といったタームが中心的なテーマに据えられることになったと酒井は述べている。

上記のような目的の下、序章では戦後イタリアの〈運動〉の系譜を辿ることにより、1960年代頃からしだいに生じ始めたテーラー・システムの揺らぎに乗じてフォーディズム的労働の拒否を展開した労働運動に対して、資本側がそれに応答する形でポスト・フォーディズムを進展させ、従来の規律・訓練=福祉国家体制とは異なる、管理=ポスト福祉国家体制とでも呼ぶべき新たな権力のダイアグラムが立ち現れつつある現状を描写している。

続く1部では、従来「主権−規律」という対立軸の下で捉えられてきたフーコーの生-権力論やそこから派生してくる統治性論を、「法−ノルム(動態として捉えられる社会の平均値)」という対立軸の下で捉えなおし、ネオリベラリズムのテクノロジーがまさにノルムの肥大化とそれにともなう法のノルムへの従属を背景としていることを明らかにしている。

最後に2部においては、?部において検討された法のノルムへの従属という視点から現代社会において進展しつつある「セキュリティの上昇」を主にアメリカの刑事政策を例に挙げながら具体的に分析して現代の管理社会の相貌を描き出し、絶望的状況における自由の新たな地平を模索している。

本書の論の鋭さはやはりフーコーの権力論を緻密に検討している?部において際立っているだろう。生-権力や統治性といった概念を、「法−ノルム」という独自の視点から分析し、その相貌を鋭く描き出す酒井の論文の重要性は、『監獄の誕生』や規律権力論に射程が限定されていた1990年代当時の日本のフーコー研究の水準を考慮すれば、一目瞭然だろう(従来、「主権−規律」という対立軸から生-権力論が捉えられていたのも、このような当時のフーコー研究の潮流を反映したものと考えられる)。

ただ、一つだけ苦言を呈すとするならば、酒井特有の「悪文」、そして青土社特有の誤字・脱字・誤植の多さ、これらは改善すべきなのではないかと思う。特に、後者については僕が今まで読んだ本の中でもっとも酷い水準であった(苦笑)。青土社がいろいろと面白い本を出しているのは分かるし、その点については僕もすごく評価しているけれども、せめて本書の定価である2940円分の編集作業くらいはやって欲しい(ボム)。

*1:本書13頁。