「死の中へ廃棄する」を検証する(2007/09/20)

「死の中へ廃棄する」という言葉は、市野川さんの著作をはじめとして結構色んな場面で引用されるフーコーの有名なフレーズですが、元々は以下のような文の一部をなすものです。

「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れたと言ってもよい。」(ミシェル・フーコー/渡辺守章訳『知への意志』新潮社,1986年,175頁)

では、フランス語ではどうなっているのか、ちょっと原著から引用してみます。

"On pourrait dire qu'au vieux droit de faire mourir de laisser vivre s'est substitute un pouvoir de faire vivre ou de rejeter dans la mort."(Michel Foucault"La volunte de savoir"Gallimard,1977,p.181)

さらに、これを自分で直訳っぽく訳したものを書いてみます(30分くらい、悪戦苦闘しました(笑))。

「死なせる、あるいは生きるままにしておくという古い権利は、生きさせる、あるいは死の中に投げ返すという権力におきかえられたということができる。」

ここで、渡辺さんの訳と僕の訳で、「廃棄する」という言葉が「投げ返す」という言葉に変わっていることに気付いてもらえるかと思います。ここの部分にあたるフランス語の単語は「rejeter」なのですが、辞書で意味を調べると「投げ返す」とか「追い返す」とか、そんな意味が出てきて、「廃棄する」という意味は載っていないんですよね(一応、『ロイヤル仏和辞典』には「棄却する」という意味が載っているのですが、これはどうも法律用語としてのものみたいなので、「廃棄する」とは若干趣きをことにすると思います)。

このことについて、若干市野川さんの『身体/生命』を引用してみることにします。

「これに対して、生-権力はまさに『死』を出発点とする。生-権力が前提としているのは、人間が可視的であるということ、配慮を怠ればいつでも死に至るという潜在的可能性である。・・・・・・生-権力もまた人を殺す。だが、それはいかに作為的であったとしても、基本的には不作為として現象する。つまり、生命を死という重力に委ねる、あるいは死という開始点へ投げ返す(re-jeter=廃棄する)というかたちで殺害は実行されるのだ。」(市野川容孝『身体/生命』岩波書店,2000年,57頁)

この記述の前に、市野川さんは近代の「ポリス」「ポリツァイ」の登場や「死の医療化」のプロセスを概観することを通して、権力の形態が個々人の「生」を前提としそれを奪うものから、個々人の「死」を前提としそれに反して生を維持するもの(=生-権力)へと変わっていったことを示しているわけですが、元々後者が個々人は権力によって配慮されなければたやすく死んでしまう、つまり生-権力の開始点が「死」であるという前提に立っていることを考えれば、それが個々人を「死」に追いやる作用を表す言葉としてはまさに「投げ返す」というのが相応しいと考えられるわけです。なぜなら、ここで個々人を「死」に追いやることは、生-権力の開始点たる「死」に個々人を「押し戻す」ことに他ならないわけですから。

このことは、フーコーの言葉からも読み取ることができます。

「今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。」(前掲,175頁)

つまり、権力は「生」のあらゆる局面については掌握しているけれども、「死」についてはそれが権力の「限界」を越えたところで展開されるため、権力は決してそれを捉えることができないということです。これは、裏を返せば、権力が配慮しない(できない)ところに「死」が生じると言っているわけで、先の市野川さんの指摘に関連する記述であると考えることができるでしょう。

このように見てくると、渡辺さんの「死の中へ廃棄する」という訳は確かにインパクトが強いし、言説としては成功しているように思います(僕自身、この言葉を最初に聞いた時には、かなりのショックを受けましたし)が、フーコーの生-権力という概念を読み解くためには、それが「死」というものを開始点とするということを明確化するためにも、「投げ返す」という訳を頭の片隅に入れながら考えていくことが必要なのかも知れません。