話はソレルけど・・・

[rakuten:book:12132309:detail][rakuten:book:10436059:detail]カール・シュミット(1923)「現代議会主義の精神史的地位」長尾龍一編『カール・シュミット著作集』慈学社出版,53-118頁より。

ソレルにとって行動とヒロイズムへの資質、あらゆる世界史的活動性は、神話への力のなかにある。・・・・・・民族あるいは他の社会集団が一つの歴史的役割をもっているかどうか、その歴史的時点が到来したかどうか、についての試金石は、神話の中にのみ存する。推論あるいは合目的的な考慮からではなく、真の生の本能の深みから、偉大な熱狂、偉大な精神的決断および偉大な神話が生ずる。熱狂した大衆は、大衆のエネルギーを駆りたて、殉教への力や暴力行使の勇気を大衆に与えるところの神話像を、直接的な直観からつくり出す。このようにしてのみ、ひとつの民族あるいはひとつの階級が、世界史の動力源となる。・・・・・・したがって、今日そのような神話への資質、そのような活力ある力がどこで現実に生きているかを正しく見ることに、すべてがかかっている。・・・・・・ソレルは、産業プロレタリアート社会主義大衆だけがなお、神話を、しかもかれらが信ずるゼネストの中で有している、ということを論証しようとする*1

合理主義、およびそれに伴うすべての一元主義、集権主義と画一性、さらに、「偉人」に対するブルジョワ的幻想は、ソレルによれば、独裁の要素である。それらの実際上の結果は組織的な圧制であり、司法のごとき残酷さであり、また、機械的な装置である。独裁は、合理主義的精神から生まれた軍事的・官僚制的・警察的な機構にほかならず、それに反して大衆の革命的暴力行使は、直接的な生の実現であり、しばしば粗暴かつ野蛮ではあるが、決して組織的に冷酷かつ非人間的なものではない。/プロレタリア独裁は、精神史的連関性を考えるあらゆる人にとって同様、ソレルにとっても、一七九三年の反復を意味する。・・・・・・プロレタリア独裁の観念の帰結としては、ジャコバンがそうしたと同様に、新しい官僚制的および軍事的な装置でもって古い装置にかえる、ということになる*2


長々と引用してしてしまいましたが、ここでシュミットは、本来ヘーゲル主義的な弁証法に裏づけされているマルクス主義においてはその理論上、資本主義の論理が放縦する「現在」のアンチ・テーゼを考える形でプロレタリア革命の歴史的時期の到来を予測する一部の知識人が*3その他のブルジョワプロレタリアートに対して「教育独裁」を敷くという形である種の合理主義が取られるはずであるにも関わらず、ロシアのボルシェヴィキ革命では「教育独裁」が取られるどころかブルジョワを始めとする「反革命分子」を粛清しながら革命を強引に推し進めていくという直接行動主義が取られた理由の一つに、ソレルの思想の影響があったことを指摘しています。

そして、そのソレルの思想というのが、議会主義やプロレタリア独裁を主張する既存の社会主義理論といった合理主義を我々を画一化へ誘う思想として斥け、プロレタリアートの本能、生の力に基づいてゼネスト=直接行動を取ることによってのみ社会主義革命が成就するとするものであるというわけです。

まあ、ある社会集団の歴史的役割を判別する基準であるという「神話」の中身がブラックボックス過ぎる感はある(シュミットも本書の最後に「神話」の観念が次第に民族的なものと結びついていったことを指摘していますし)のですが、それでもヘーゲル弁証法に基づくマルクス主義理論の科学性に画一化への契機が内在していることを鋭く読み取っている点でかなり面白いことを言っているような気がします。市野川さんの『社会』の中では、「ソレルの『暴力』はベンヤミンの言う『神的暴力』じゃねぇ!」みたいな感じで斥けられてましたが*4、ちょっと読んでみたくなってきたような・・・(ソレルの『暴力論』の翻訳って、確か、今は亡き今村仁司さんの最期の仕事だったと思いますし)。

それにしても、シュミットのこの本、くそ難しいですね。ヘーゲル憲法マルクス主義も、中途半端にしか知らない(いや、ほとんど知らない(苦笑))僕には結構しんどい本でした(j2ボム)。プリンさん、早めに読んで、早めにレジュメを作った方が良いですよ(笑)。

*1:シュミット,108-109頁。

*2:シュミット,112-113頁。

*3:資本論』において社会主義が語られずにブルジョワ資本主義が分析されるのはこのため。

*4:「『神話』という言葉で語られるソレルのサンディカリズムを、ベンヤミンの言う『神的』暴力とイコールで結ぶことはできない」(市野川容孝(2006)『社会』岩波書店,75頁)。