カール・シュミット(1932)「政治的なものの概念」長尾龍一編『カール・シュミット著作集』慈学社出版,247-311頁

カール・シュミット著作集 (1)

カール・シュミット著作集 (1)

政治的行動と動機がそこに帰着せしめられるところの特殊政治的な区別は友敵の区別である。・・・・・・友敵の区別は、道徳的、審美的、経済的その他の区別のすべての同伴を要さずに理論的にも実際的にも成り立ちうる。政治的敵は道徳上であることを要さず、審美的に醜である必要もなく、経済的な競争者でなければならないということもない、それどころか彼と取引をすることが有利であるようにみえるといったことすらありえる。彼はまさしく他者、外在者であって、とりわけ強い意味で実存的に他の者、外在者なのであって、極限の場合、あらかじめ定立された一般的基準によっても、また「非関与的」でそれゆえ「公平な」第三者の審判によっても裁決しえない闘争に彼と陥る可能性があるということだけが政治的敵の本質なのである*1


第一章 国家的と政治的
第二章 政治的なものの標識として友敵の区別
第三章 敵対性の現象形態としての戦争
第四章 政治的統一体としての国家と多元論
第五章 戦争および敵についての決断
第六章 政治的数多体としての世界
第七章 政治理論と人間論
第八章 倫理と経済の対極化による非政治化


ナチスお抱えの法学者としても「名高い」カール・シュミットの著作。本書で定式化される「友敵理論」はその後の政治学に多大な影響を与えた理論として有名である。

本書の目的は、「政治と経済、政治と道徳、政治と法、法内部にあってはさらに政治と私法等といった対句にみられるように、さまざまな他の概念に対する対立物として消極的に使用され」*2がちであり、また「国家的」と等置されがちな「政治的なもの」の定義を、それ自体に特殊なものとして明らかにすることである。この作業は、民主主義国家の進展によりもはや国家と社会の二元論が崩壊しつつあった1930年代当時のヨーロッパの政治状況において不可欠なものであるとシュミットは述べる。

上記のような問題意識の下で導出されるのが、友と敵の区別に政治的なものの本質を見る「友敵理論」である。ここで措定される「敵」とは、経済的な競争相手や道徳的な二分法における悪のような生易しいものではない。これについてシュミットは次のように述べている。「敵はかくして競争者、対立者一般ではない。敵はまた人びとが嫌悪感をもって憎悪するところの私的対立者でもない。敵とは、まさに同様の人間集団に対立するところの、少なくとも戦うことのありうる、すなわち戦う現実的な可能性を持った人間集団にほかならない」*3。つまり、「友敵理論」における敵対性とは、戦争によって究極的には相手を抹殺する可能性を十分に有するものでなければならないというのだ。そしてこの性質から、交戦権を有し、敵を抹殺する可能性を有しているのは主権を保持する国家しかないという形で「政治的なもの」を国家に還元するシュミットの論理が導き出される。このように、相手の抹殺可能性を孕む敵対性に「政治的なもの」の本質を見るシュミットにとって、性善説的な人間論を基盤とし、敵対性を倫理的な「討論」と経済的な「交易」とに矮小化する自由主義はペテン以外の何者でもない。

冒頭でも述べたとおり、「政治的なもの」を敵対性に読み替える本書の基本的なコンセプトがシュミット以降の政治理論に与えた影響は絶大であり、また昨今のネオリベラリズムの諸テクノロジーによる敵対性の不透明化を考えた場合、彼の理論の持つ重要性は決して小さくないだろう。

しかしながら、そのような敵対性における「敵」を抹殺可能なものと措定し、「政治的なもの」を国家に還元していく論理展開はいささか乱暴であるように思われる。そもそも、国家/社会の二元論における国家から「政治的なもの」を解放するのが本書の目的であったはずなのに、それを再び国家に還元していくのは矛盾を孕みはしないか。

やはり本書の持つ重要な示唆は、あくまでも「批判的」に受容されなければならないもののように思う。

*1:本書254頁

*2:本書248頁。

*3:本書256-257頁。