フーコーとハイエク

酒井隆史(2001)『自由論 現在性の系譜学』青土社から。

フーコーの議論には言うならば「行為の存在への圧縮・還元」という事態への嫌悪と抵抗が一貫しているように思う。存在の同一性へと行為をすべて放り込んでしまう「戸籍的権力」への抵抗。・・・・・・たとえばフーコーは晩年のラビノウたちによるインタビュー「倫理の系譜学について」(八三年もの)で行為-快楽-欲望の三項を組み合わせながら時代、地域別の自己のあり方を図式化している。だがそこでも古代ギリシア(「行為-快楽-(欲望)」と定式化されるにおける、快楽とつき合いながら行為を吟味することで自己を練り上げる方法への好みは明らかであるように見える(フーコーは快楽のなかに行為を埋没させてしまう中国の「アルス・エロチカ」はおそらく好まないだろう)*1。・・・・・・このフーコーの晩年の展望が、法へのある種の好意〔このほうへの好意をあえてハイエク的なものと呼んでもいいのかもしれない。フーコーが擁護するのは実証主義的法ではないのである。しかし、フーコーハイエクのように自由が自生的法と結びつき「全体主義」化をさまたげる「法の支配」という地点でとどまりはしないが。〕となってあらわれることは理解できるかもしれない*2


ここで酒井が「行為の存在への圧縮・還元」と呼んでいるのは、「お前は何者か」という問いに対する答えをもってその存在が取る可能性が高い行為を措定してしまう事態である。つまり、フーコーはこのような事態に抗し、「お前は何者か」という問いに対する答えに従属しない主体として、自ら行為を吟味しながら自己を練り上げていく古代ギリシアの主体のあり方を好んでいたように見えるということである。そして、このような主体観に憧憬を抱くフーコーの念頭には、市場を通した分散的な知識のやりとりの中での自生的な秩序の形成を唱えるハイエクの理論があったのではないかというわけだ*3

僕は今までフーコーの権力論に支えられた反管理主義・福祉国家批判の言説をニューライトが「悪用」したと考えていただけれども、もしかしたらニューライトこそが「生-権力」を唱えた当時のフーコーの問題意識を忠実に継承していたのかも知れない。

もちろん、1984年にその短い生涯を終えたフーコーに自らが繰り出した福祉国家批判がその後どのような意味を持つことになったのかを知る術はなかっただろうし、もし今彼が生きていたとしたら、「行為の存在への圧縮・還元」を福祉国家よりも巧妙な形―もはや「お前は何者か」を問わない形―で強化しているネオリベラリズムに抵抗しないはずはないだろうけれども。

*1:同インタビューで、古代ギリシアの「生存の美学」についてフーコー自身が「美的芸術作品の材料としてのの生活という観念にわたしは魅了されます。同様に、道徳というのは、それ自体としては法律のようないかなる権威体系とも何の関係もなく、また規律の仕組みとも関係のない、生存の強力な構造でありうるという考えもわたしはとても好きです」と述べていることからも、この酒井の指摘の妥当性が覗える。フーコー(1983)「倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要」『フーコー・コレクション 性・真理』小林康夫他編,ちくま学芸文庫,187-188頁参照。

*2:酒井,191頁。ただし、注などの一部を省略した。

*3:酒井によれば、コレージュ・ド・フランスの79年講義の際に、学生に対してハイエクのテクストを読むように求めたらしい。酒井,133頁参照。