アントニオ・ネグリ=マイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち、主権が新たな形態をとるようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体からなるということ、これである。グローバルな主権形態こそ、私たちが〈帝国〉と呼ぶものにほかならない*1


グローバリゼーションを、国民国家の衰退と資本主義的論理のグローバルな放縦を批判する文脈やアメリカ帝国論とは異なる視点から、つまり新たな主権形態として登場しつつある〈帝国〉を分析する視点から捉えようとしたネグリ=ハートの代表的著作。

本書の論は、「近代性の危機」を飼い慣らして来た国民国家体制の分析に始まる。「近代性の危機」とは、ルネサンス期にキリスト教を典型とした「超越的なもの」の衰退と共に登場する革命的な内在性の平面―超越性による媒介が存在しないこの平面ではマルチチュードの潜勢力は貫徹される―と、それを飼い慣らそうとするホッブズリヴァイアサン・プロジェクトに代表されるような超越論的装置という二つの近代性のせめぎ合いのことであるが、国民国家は近代的主権の諸理論や帝国主義・植民地政策を取ることで後者の近代性を擁護してきたのだとネグリ=ハートは指摘する。

しかしながら、二度の大戦を経た後の植民地体制の崩壊や「1968年」をメルクマールとするポストモダニズムへの移行によって、もはや国民国家体制を支えていた超越論的装置は機能しえなくなってしまう。そこで登場するのが新たな主権形態としての〈帝国〉である。

この〈帝国〉においてはもはや国民国家は中心的な存在ではないとネグリ=ハートは言う。それはあらゆる差異を取り込んでネットワークを形成することによりマルチチュードの潜勢力を搾取しつつも、そのような潜勢力が革命的にならないよう飼い慣らすべく、形成されたネットワークを階層秩序化し管理しようとするのである。ここにおいては国民国家もそのような階層秩序を構成する一つのアクターに過ぎない。

しかし、これは裏を返せば、〈帝国〉はマルチチュードの生産する富に寄生することによってしか生き延びることのできないものであるということにもなる。そして、これこそが抵抗の鍵になるのだとネグリ=ハートは言う。つまりは、自らにイニシアティヴがあることを自覚する時、マルチチュードは政治的主体を構成するのだと。

本書の斬新かつ鋭敏な点は、グローバリゼーションの分析を「近代的なもの」の解体に対する賛美や批判という文脈から解放し得る視座を提供していることだろう。新たに形成されつつあるグローバル秩序が、ポストモダン的言説を武器にしながらなされる「近代的なもの」の解体を駆動力としているというネグリ=ハートの指摘は、一考に値する。

ただし、本書におけるマルチチュードに関する言及はやや観念的すぎるきらいがあるので、この点については三部作の二作目である『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義』も合わせて参照する必要があるだろう。

因みに、『マルチチュード』の方が比較的分かりやすい言葉で書かれている(だからと言って平易なわけではない)ので、こちらを先に読むのも本書を理解する上では得策であるように思う。

*1:本書4頁。