〈帝国〉における難民(1)

土佐弘之のとある論文から。

難民は、主権国家の排除項というより、『長い二一世紀』システムの中心部ないし(ポストモダン的)《帝国》の排除項といった性格を持つようになってきている。国内避難民の現象に看守できるように、先進資本主義諸国の脱福祉化に伴う国際経済体制のネオ・リベラル化は、『強いられた移動』を不可避とするような状況を産み出しながら、同時に『出口なし(受け入れ先なし)』の状況を作り出していっている。しかし、〈他者に対する責任〉の再領域化といった現象とともに、グローバリゼーションは、特にメディアを介して〈他者に対する責任〉の脱領域化(遠隔地の悲劇へのエンパシー)といった現象も生じさせている。そこで、〈他者に対する責任〉の脱領域化といった表面上の装いをとりながら、実質的に再領域化の動きになっているものとして、『新しい人道主義』と言われるような現象が現れてきている*1

国際経済体制のネオリベラル化を促進する〈帝国〉的主権は、一方で難民にフレキシブルな移動を強いながら、他方で「人道主義」=〈他者に対する責任〉の脱領域化を標榜した軍事的介入・経済支援によって「難民の封じ込め」をはかる=〈他者に対する責任〉を再領域化しようとしている、その意味で、難民はもはや主権国家国民国家の排除項というよりは、〈帝国〉の排除項と言えるのではないか、ということである。

ネグリ=ハートが

生命の再生産はグローバルな空間の階層秩序を維持し、資本の政治的秩序の再生産を保証すべく調整されなければならないのだ。おそらくこれはもっとも基礎的な生権力の形態である*2

と述べるように、〈帝国〉の生-権力の形態の一つを、資本による富の搾取構造を維持するという目的にそぐう形での人々の生命の管理に見出せるとするならば、〈帝国〉の排除項としての難民の封じ込めはそのような生-権力による管理の究極的な形象であると言えるだろう。

国民国家批判の文脈でのみ難民問題を捉えようとする試みには、あまりにも死角が多すぎる。

*1:土佐弘之(2002)「《条件付き歓待》の国際政治学 国際難民レジームの危機との関連で」『現代思想』第30巻第13号,100頁。

*2:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2004)『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』幾島幸子訳,日本放送出版協会,272頁。