難民問題に関する先行研究批判(1)

ネグリ=ハートは、近代性を批判する理論としてのポストモダニズムやポストコロニアリズムについて、次のような指摘をしている。

私たちは、ポストモダニズムとポストコロニアリズムの理論が、いずれは行き詰まるのではないかと疑っている。なぜならそれらは現代の批判の対象を的確に認識できておらず、要するに今日の本当の敵をとり違えているからである。もしもこれらの批評家たちが(それに私たち自身も)かくも苦労して記述し、反駁してきた権力の近代的な形態が、もはや私たちの社会を支配しているのではないのだとしたらどうだろう?・・・・・・早い話が、新しい権力のパラダイム、すなわちポストモダンな主権が近代的なパラダイムや支配にとって代わり、これらの理論が礼賛する異種混交的で断片化された主体性を差異化する階層秩序をすっかり支配するにいたっていたとしたら、どうであろうか?この場合、近代的な主権の形態はもはや問題にはならず、一見解放的なものに見えるポストモダンやポストコロニアリズムの戦略も、実際にはこの新たな支配の戦略に対して挑戦するのではなく、それと合致し、知らず知らずのうちにそれを強化することにさえなるだろう!・・・・・・この新しい敵は古い武器に対して抵抗力があるだけでなく、むしろそれらの武器のおかげで強大になっているのであり、それらを最高度に利用することによって、その敵でいるつもりの者たちの仲間に加わっているのである。差異こそ万歳!本質主義の二項対立は滅びよ!というわけだ*1


昨今、現出しつつある〈帝国〉的主権は、近代的な本質主義的二項対立図式ではなく、ポスト近代的な多様な差異、異種混交性をその駆動力としているのであって、そのことを認識せずして未だに本質主義的二項対立図式を暴露し、批判し続けるだけのポストモダニズム・ポストコロニアリズムは、結果として〈帝国〉的主権の支えになってしまっているというのである。

このような批判は、ポストモダンの議論を用いて「難民」という存在を「国民」「非-国民」という二項対立図式で捉え、それを批判することしかしない先行研究にも当てはまるだろう*2。難民問題を、単に従来の国民国家体制を批判し、それを解体する企ての「コマ」としてのみ消費するならば、それは〈帝国〉的主権の求める、国民国家という境界を越えた人びとのフレキシブルな移動性を促進する結果につながってしまうのだ。

その意味で我々は、もう一歩踏み込む形で、〈帝国〉的主権の相貌を見定め、それに基づくグローバルな権力関係において「難民」という形象がどのように位置づけられるのかを考察する必要があるだろう。

*1:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社,184-185頁。

*2:たとえば次の2つが挙げられる。「原理上、一定の領域内のすべての住民を『国民』へと均質化し動員することをめざしていたはずの国民国家の空間において、なぜそこに包摂されない人間が生み出されて排除されてしまうのだろうか。・・・・・・この問いはとりもなおさず、国民国家体制のもとで『難民』がどうして不断に生み出されざるをえないのか、という問いでもあろう」(上野成利(2006)『暴力』岩波書店,13頁)。「『難民』が『現代の人民の形象として思考可能な唯一の形象』であるのはどうしてなのか。この問題はなぜ、『国民国家の没落』あるいは、『その主権の解体過程』において立ち現れているのだろうか。『難民』問題を捉えるには、第一次世界大戦から第二次世界大戦、そして今日にいたる『人民』と、『国民国家』の『主権』との関係を歴史的に問い直さねばならない」(市野川容孝・小森陽一(2007)『難民』岩波書店,2頁)。