「僕は皆さんとは立場が違うけれども、皆さんのような運動を否定するつもりはありません」

これは、僕がI水ゼミの合宿に初めて参加して、築城基地周辺の住民が中心となって行われている座り込み運動を見学した時に、その場で発言を求められて言った言葉です(昨日、U野先輩と飲みながら話をしていて思いだしました(笑))。

この発言、今読むだけでも背筋の凍る思いですが(苦笑)、それは何も当時僕が寄って経っていた立場がどうだとかそういうことではありません。この発言が、従来、リベラル・デモクラシーが民族的・文化的・社会的差異をめぐる敵対性を私的領域に押し込める=脱政治化するために用いていた言説にそっくりだからです。つまり、「あなた方があなた方自身の差異を求める主張を公的領域に持ち込まない限りにおいては、我々はあなた方の主張・運動を否定しはしない」といった具合の言説に。

ネグリ=ハートが「〈帝国〉は〔それ以前の権力構造よりも〕マシである」*1と言うのは、恐らくこれらの事柄にも関連しているのだろうと思います。すなわち、公的領域と私的領域という、それまでマルチチュードの創造的な運動の力を減退させる「媒介」として機能していた二元論的枠組が、生政治的生産に寄生する〈帝国〉的秩序の出現によって解体した、その意味で〈帝国〉はマルチチュードが構成的権力を行使する必要条件を用意しているということです。

〈政治的なもの〉と〈敵対的なもの〉とをイコールで結んでいたのは『魂の労働』の渋谷さんですが、その認識を共有する今の僕から見れば、当時の「僕」は今の僕以上に「政治」を分かっていなかったんでしょうね*2

今度の合宿では、再び築城基地に行くっぽいので、その時には今の僕に同じ場所がどのように見えるのかを噛み締めたいなぁと思います。

*1:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社,66頁。

*2:渋谷望(2003)『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』青土社,15頁。