反動的批評家・東浩紀

『フリーターにとって自由とは何か』の著者、杉田俊介のブログ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/)から、東浩紀の次のような記事を見つけた。

「シンポに向けてのメモ」(http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html

「シンポに向けてのメモ2」(http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

そこで東は、「物語の衝突」や「敵対性」をその中枢に据える政治観を斥けながら、「政治」を次のように定義している。

ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。


近代的価値をバックグラウンドとして支えられていた諸々の「物語」など、近代性の解体とともに今や社会の方々に拡散してしまった、それなのに人々は確たるバックグラウンドも持たない個々の「小さな物語」にしがみついて、アイデンティティだの承認欲求などと騒ぎ立てることを「政治」と勘違いしている、しかし「政治」とは本来そのようなものではない、「政治」とは「社会共通の資源」をよりよく管理していくことなのだ、と東は述べているようである。

しかし、正直言って、僕には東が言う「政治」の定義が、体裁だけ取り繕っていて中身のない、いわば「埴輪」のようにしか見えない。端的に言えば、何かを語っているようで何も語り得ていないように見えるということだ。

杉田が指摘するように、そもそも当事者自身が「現場の問題」に関して分析をしたり実践をしたり、あるいはそれらに基づいて政治的主張を行ったりすることなしに「よりより資源の管理」などあり得ないのであって、その時点で既に東の政治観はリアリティに欠ける*1

しかも、東は彼の「政治」の定義における唯一の要素とも言える「社会共通の資源の管理」について

ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。


と述べているが、この説明からは「社会共通の資源」が何なのかさっぱり分からない、というよりも、結局のところ何でもありなのではないかという感が否めない。やはり東の「政治」は、何も語り得ていないように思われる。

東は、このような政治観を提示する上で、とにかくアイデンティティイデオロギーといったものの差異を棚上げする必要性を強調しているように見える。諸々の差異の衝突を避け、敵対性を解消しようとする東のスタンスは、文化相対主義に近いものがあるだろう。

実は、このような差異の棚上げは、〈帝国〉的主権を強化する言説の一つであるのだ。このことについてネグリ=ハートは次のように述べている。

多国籍企業は労働者たちが属する各々の民族集団を扱うにあたって、それらの出自―ヨーロッパ系、アフリカ系、アメリカ先住民の諸種の集団に由来するものなど多種多様である―に応じて異なった方法を採り、搾取と抑圧の度合いを変化させる。民族性と同一化からなる種々の線と並んで、労働者たちのあいだの敵対性と分裂は利潤を増大させ、管理を促進するものなのだ。法制的な統合とは対照的に、完璧な文化的同化は〈帝国〉の管理にとっての最重要課題ではないということは紛れもない事実なのである。・・・・・・偶発性・機動性・柔軟性こそが〈帝国〉のリアルな権力を構成しているのだ*2


「難民問題に関する先行研究批判(1)」(http://d.hatena.ne.jp/Foucaultlian/20080302/1204482696)でも述べたように、〈帝国〉は自ら進んで差異を棚上げしながら取り込み、その権力装置の糧としているのである。ここで述べられている多国籍企業の事例はその一つである。

以上述べてきたところから考えると、結局のところ、東の言う「政治」とは、その定義の重要な要素である「社会共通の資源」の語義が曖昧すぎて何も語り得ていないように見えるのみならず、差異の棚上げを必要以上に強調するあまり、ともすると〈帝国〉的主権を強化し、マルチチュードの内在的な潜勢力を飼い慣らそうとするような言説として機能しかねないものであると言えるだろう。その意味で、彼は極めて「反動的」ではなかろうかと僕は考えている。彼自身は自分のことを「保守的」と言っているけれども*3

*1:この点について、杉田は次のように述べている。「多様かつ個別的な『現場の問題』(1)について内在的に分析したり実践したりすることから、しかしその先で、どうやって『社会共通の資源のよりよい分配』(2)を成り立たせていくか、ということを、まともな人たちはずっと考えてきたんじゃないか、と思っているんだけれども…」。

*2:アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2003)『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳,以文社,260-261頁。

*3:この点について、東は「したがって、あるていど頭のいいひとは、特定の物語を信じず、諸物語の『均衡』を目指すことになる。これは保守の立場に近づく(ちなみに右翼と保守は違う)。ぼくが『ポストモダン』とか呼んでいるのもこの立場だ。ぼくのポストモダン観はそういう意味ではきわめて保守主義的だ」と述べているが、「諸物語の『均衡』を目指す」という言葉が、マルチチュードの諸々の特異性を飼い慣らそうとする〈帝国〉的主権の試みを示唆するような気がしてならない。その意味でも、彼はやはり「反動的」なのではないかと僕は思う。