アガンベンと生殺与奪の権(1)(2007/10/19)

今日は、風呂上がってからしばらく読んでた市野川容孝・小森陽一(2007)『難民』岩波書店について、「これ、おかしくねぇ?」って思ったことを書いてみます。

まずは、小森さんが執筆している第Ⅰ部から引用を。

強制収容所は、先に引用したカール・シュミットの言う『例外状態』に置かれている場にほかならない。同時に、この『例外状態』こそ『主権』の根拠があるのだ。つまり、あらゆる法的秩序が停止されてしまい、一切の法的拘束力のない状態で、権力による決定が、ある特定の人々に死を与え、他の人々は生かしておくという、生殺与奪の権限を執行する状況が『例外状態』であり、その際権力を行使しうるのが『主権』にほかならない。このように、法に拘束されない剥き出しの権力の恣意にさらされているのが、冒頭に引用した、ジョルジョ・アガンベンの言う『剥き出しの生』なのだ」(前掲『難民』,42頁)。

第Ⅰ部では(もっとも、まだ2章までしか読んでませんが^^;)、「国民国家においては『生まれがただちに国民となる』という虚構であり、『生まれ』と『国民』の間に論理的に存在するはずの『人間』が不可視の領域に追い込まれている」(前掲『難民』,9頁)というアガンベンの指摘の意味を探るべく、専制的な主権国家から近代以降の国民国家への移行の歴史的変遷の検討がなされます。そして、そこから「主権=君主=国家」という図式が成り立っていた主権国家から、「主権=人民=民族」という形で主権に「生まれ」の論理を孕む「民族」という概念が関わるようになった国民国家への移行が、主権によってかたや人権を保障される「国民」と、かたや人権が保障されないどころか国家内部から排斥される「非国民」との峻別を生み、このことが第一次大戦以降の大量の難民発生を引き起こしたということが見出されています。引用は、前述のとおり人権が保障されず、法的な「例外状態」におかれる「非国民」たちを、究極的には主権が死に追いやることを示すものです。

それで、僕が疑問に思ったのは、例外状態における主権の決定が「生殺与奪の権」と解され、それがアガンベンの思考と結び付けられていることなんですよね。というのも、アガンベンは小森さん自身が冒頭で述べているとおり、フーコーの「生-権力」概念を踏襲しながら、それを発展させてきた論者ですから。

しかし、これだとあくまで僕の推測の域を出ないので、アガンベン自身の言葉でもってこれを裏付けるべく、たまたまU野先輩から買っていたジョルジョ・アガンベン(2001)『アウシュヴィッツの残りもの―アルシーヴと証人』上村忠男・廣石正和【訳】,月曜社をぱらぱらめくってたら、以下のような記述を見つけました。

「これまでの考察に照らしてみれば、この二つの定式(フーコーが定式化した「殺す権力」と「生かす権力」)のあいだに第三の定式が忍び込んでいることがわかる。それは二十世紀の生政治のもっとも特徴的な性格を定義するものである。もはや、死なせるでも生かすでもなくて、生き残らせるというのが、それである。生でも死でもなく、調節可能で潜在的には無限な生き残りの生産が、現代の生権力の主要な性能である」(前掲『アウシュヴィッツの残りもの』,210頁,括弧内引用者)。

要は、アガンベンは従来の「生殺与奪の権」でも、フーコーの定式化した「生-権力」でもない、第三の「生き残らせる権力」を提示しようとしているわけです。そして、この第三の定式にこそ、アウシュヴィッツにおける大量殺戮を分析する手がかりがあるのではないかと言っているのです。

このように考えると、強制収容所の分析においてアガンベンが「生殺与奪の権」の示す権力観に依拠していたと読める先の引用はどう考えてもおかしいような気がするんですよね・・・

アガンベンが第三の定式を「生き残らせる」と表現するように、そこでの生-権力は人間の出発点を「死のプロセス」に見ているんですよ、きっと(笑)。

まあ、『難民』もアガンベンも、最後まで読んだわけではないので、今日はこのくらいにしておきます^^;

因みに、本論とは関係ないのですが、論文に使えそうな一節を『アウシュヴィッツの残りもの』で見つけたので、ちょっくら載せておきます。

フーコーは、すでに見たように、近代の生権力と古い領土国家の主権的権力とのちがいを、シンメトリックな定式を交差させることによって定義する。死なせ、そして生きるがままにしておくというのが、古い主権的権力の銘句であって、主権的権力は何よりも殺す権利として行使される。これにたいして、生かし、そして死ぬがままにしておくというのが、生権力のモットーであって、生権力は生物学的なものの国家化および生にたいするみずからの第一目標としている」(前掲『アウシュヴィッツの残りもの』,209-210頁)。

「生かし、そして死ぬがままにしておく」、この訳、正直ドンピシャだと思うんですけど(もう少し早く気付けば・・・(泣))。ここのフレーズが原著でどうなっているのかも気になりますね。