アガンベンと生殺与奪の権(2)(2007/11/14)

ジョルジョ・アガンベン(2000)『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』上野忠男・廣石正和【訳】,月曜社を読んだので、今日はそのことについて(今月は「アガンベン祭り」です(ボム))。

まず、Amazonにおける本書のレビューを引用してみます。

「むしろアウシュビッツはシベリア抑留に質的に似通っているのではないか?と感じられた。仲間と思ったものが、どんどん精神的に、また肉体的に弱り、徐々に囚人の数が減らされていく。正しくアガンベンが言った『ホモ・サケル=剥き出しの生』であり、フーコーのいった『生政治=バイオポリテック』である。政治が生殺与奪権を恣意的に振り回すということである 」。

これを書いたレビュアーも、また前回引用した小森陽一さんもアガンベンの定式化する生-政治を「生殺与奪の権」の解していますが、果たしてこれは適切な理解なのか。

このことについては、アガンベンフーコーの定式化した殺す権力としての生殺与奪の権と生かす権力としての生-権力とは区別される第三の定式としての「生き残らせる権力」―アガンベンによれば、それは人間の生を分割し、ある部分を生き残らせようとするものですが―を提示し、その観点の元でアウシュヴィッツを見ているのだから、おそらく不適切だという形で前回も言及していたのですが、今回はちょっと新たな視点から、つまりアウシュヴィッツでの「死」はもはや死ではないと考える視点からこのことについて言及してみたいと思っています。

まず、アガンベンは以下のように述べています。

アウシュヴィッツでは、人が死んだのではなく、死体が生産されたのである。その死亡が流れ作業による生産にまでおとしめられた、死のない死体、非-人間。一つの可能な、また一般に流布している解釈によれば、この死の零落こそが、アウシュヴィッツに特有の凌辱、その恐怖の固有の名であることになるのだろう」(前掲『アウシュヴィッツの残りのもの』94頁)。

ここでアガンベンは明確に、アウシュヴィッツにおける「死」というものが通常の死とは一線を画すものであることを「生産」という言葉を用いることで指摘しているわけです。

では、通常の死とは異なるアウシュヴィッツの「死」とは何なのか。それを解き明かすべく、アガンベンハイデガーの議論を引用しながら、まず通常の人間の死について以下のように述べます。

「じつは、『存在と時間』では、死に特別な役割が託されている。死は決意の体験であり、『死に向かう存在』の名のもとに、おそらくはハイデガー倫理学の究極の意図を体現している。というのも、人間は、おしゃべり、あいまいさ、散漫からなる日常の非本来性のうちに、つねにすでに、なによりも先んじて投げこまれているが、ここで生じる『決意』のもとで、その非本来性は本来性に変容するからである。・・・・・・いいかえれば、実存の果てしない不可能性を体験することは、人間が世人の世界に踏み迷うことから解放されて、自分自身に自分本来の事実的な実存を可能にしてやる方法なのである」(前掲『アウシュヴィッツの残りのもの』98頁)。

つまり、ハイデガーによれば、死とは本来、それを「決意」することにより、つまり実存の不可能性を体験することにより、逆説的に自分本来の実存を可能にするものであるというわけです。まあ、高田明典さん風に言うなら「『役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける』ことで役割を所有する」みたいな感じでしょうか(笑)(高田明典(2006)『「私」のための現代思想光文社新書,89-92頁参照)。

しかし、アウシュヴィッツにおける「死」はもはやこのような死ではあり得ません。というのも、アウシュヴィッツでは死を「決意」することは困難を極めるからです。それについて、アガンベンは次のように述べています。

「したがって、アウシュヴィッツで死の体験が阻まれるのは、本来的な決意の可能性そのものをあやうくするような別の理由、かくてはハイデガー倫理学の土台そのものを揺るがすような別の理由によるのにちがいない。・・・・・・死に向かう存在において、人間が非本来的なものを自分本来のものにするのと同じように、収容所においては、収容者たちは日常的かつ匿名的に死に向かって実存する。自分本来のものでないもののの本来化は、もはや可能ではない。というのも、自分本来のものでないものは、すでに自分本来のものをすっかり担っていたからであり、人間は、いかなる瞬間にも、事実的に自らの死に向かって生きているからである」(前掲『アウシュヴィッツの残りのもの』99-100頁)。

つまり、アウシュヴィッツにおいて収容者たちは、「決意」する間もなく常に死に向かって実存することを余儀なくされるため、非本来性を本来化することもなく死体へと変容して行ってしまうというわけです。その意味で、アウシュヴィッツにおけるそれは、「死」であって死ではないということになるでしょう。

このように、アウシュヴィッツの「死」の異質性をアガンベンが説いている以上、そこで行われた殺戮を、従来的な死を前提とする「生殺与奪の権」と同一視するのは適切でないように僕には思われます。

しかし、これくらいのことは読めばすぐに分かると思うんですが、どうしてアガンベンの思考を「生殺与奪の権」と解する人が少なからず存在するんでしょうかね・・・

まあ、これについては、『人権の彼方へ』と『ホモ・サケル』を読み終わった後にでも考えてみることにしましょうかね^^;

それにしても、アガンベンは面白いですね。生-政治を考える上で、彼がビシャを引用していたことは非常に興味深いです。彼もまた、アウシュヴィッツにおける「死」というものを徐々に進行するプロセスとして捉えていたように僕は感じました。

「なんらかのしかたで『最終解決』に関与したものはだれでも、ナチス官僚機構の隠語によれば Geheimnistrager すなわち機密保持者であるのにたいして、回教徒(収容者の末期の状態)は絶対的に証言不可能な機密であり、生権力の開示不可能な貴重品箱である。・・・・・・その空間はあらゆる生を自分自身から分離しながら、公民から非アーリア血統のドイツ国籍取得者への移行、非アーリア人からユダヤ人への移行、ユダヤ人から収容者への移行、そしてついにはユダヤ人収容者から自分自身を越えて回教徒への、すなわち割り当て不可能で証言不可能な剥き出しの生への移行を印づける」(前掲『アウシュヴィッツの残りのもの』211頁,括弧内引用者)。