伊豫谷登士翁(2002)『グローバリゼーションとは何か』平凡社新書 に関するメモ

目についたところをとりあえずメモる(笑)。

グローバル資本が創りだしてきたのは主権あるいは統治の新しい形態です。これまで主権は、もっぱら国家に集約されてきました。しかし越境する企業活動は、国家のさまざまな主権行為を越えて稼動することを可能とし、国家に代わる新たな権力主体として登場してきました。一定の領土と国民によって固定された領域性は、政治的にも、文化的にもほころび、かつての地政学的な南北問題は解体してきました。貧しい南のなかに豊かな北が現れるとともに、北の中に南が浸透する。国家間の序列として表されてきた国際政治秩序は崩れて、グローバルな政治体系は、脱領域性と脱中心性によって特徴づけられることになります*1

グローバリゼーションの時代において、ネーションの柔軟性(フレキシビリティ)や再帰性(リフレキシビリティ)は、明確になったと考えられます。すなわち時代の変化に適合するように変化するとともに、時代の要請を取り込んでいたのです。それゆえに、国民国家が想像であるといっただけでは、ナショナリズムを批判したり、克服したりしたことにはならないのです。「われわれ」と他者を分離し続ける、それが想像の共同体としての国民国家であるわけです*2

グローバリゼーションは、政治や文化から人々の日常生活まで、「規制緩和」と「民営化」というイデオロギーと権力を通して浸透し、グローバル化の過程にアクセス可能な主体とそうでない主体との区分を急速に推し進めてきました。一言でいうならば、近代を特徴づけてきた差異化と均質化の過程が国境を越えて浸透し、人々を分断する境界線が世界中のいたる所に張りめぐらされている、ということができるでしょう。環境保護運動住民運動あるいは国家権力すら、新たな権力に対抗する手段を見いだすのは困難です。あらゆる社会運動が体制のなかに包摂されてきているからです*3

グローバリゼーションを定義すれば、近代世界を特徴づけてきた均質化と差異化の過程が、これまでの国民国家という一元的な境界を越えて浸透し、国民国家という領域性が崩壊あるいは変形しつつある状況、といえるでしょう。あるいは国民国家として、人々を底辺から管理する装置として築きあげられた総動員体制に風穴が空けられ、多孔化してきているといいうるかもしれません。こうした均質化と差異化は、経済ならびに政治・文化などさまざまなレベルで進行しています*4

*1:本書54-55頁。

*2:本書69頁。

*3:本書90頁。

*4:本書107-108頁。