〈帝国〉の枢密顧問官、サミュエル・ハンチントン(2008/02/01)

噂の「〈帝国〉の枢密顧問官、サミュエル・ハンチントン」を、アントニオ・ネグリマイケル・ハート(2004)『マルチチュード(上) 〈帝国〉時代の戦争と民主主義』幾島幸子訳,日本放送出版協会,75-79頁より(笑)。

「・・・今日、政治学者の大部分は、秩序の維持という数量的問題の解決に取り組む単なる技術者になり下がり、残りは大学から『権力』という名の王宮に通じる通路をうろついては、主権者に取り入って助言のひとつも献上しようと企んでいる。こうした政治学者の典型が主権者の隠れた助言者たる『枢密顧問官』である。/今日、その助言者の立場を誰よりもうまく手に入れた〈帝国〉枢密顧問官の格好の例は、サミュエル・ハンチントンだろう」。

「冷戦が終結し、国民国家の主権さえ弱体化しつつある20世紀末、グローバルな秩序をいかに形成し、その秩序を維持するのに必要な暴力をどのように配慮し、正統化すべきかは明らかではない。そこでハンチントンはこう助言する。グローバルな秩序とグローバルな紛争の編成、言いかえれば同盟陣営と敵陣営とを分ける国家のブロック化は、もはや『イデオロギー』によってではなく、『文明』によって行うべきだ、と」。

「彼はこの文明という幻影を呼び出し、政治の基本をなす味方-敵の区分を再整備するための大いなる図式をそこに見出している。自分と同じ文明に属する者は味方であり、それ以外の文明は敵である、と。・・・・・・また彼は、こうした迷信は常に、永続的な戦争と破壊からなるこのうえない野蛮状態に通じているということをよく知っていたのである」。

「この文脈で言えば、文明の衝突なる仮説は、世界の現在の状態の記述(ディスクリプション)というより、戦争への呼びかけ、『西洋』が果たすべき任務を明示した処方箋(プリスクリプション)というべきものだろう。言いかえれば、これらの文明は始原的でも精神的でも、歴史的なものですらない。そうではなくて、これらは永続的な戦争状態において敵と味方の役割を果たす現実の政治集団を生み出すための、政治的かつ戦略的な命令に他ならないのだ」。

「戦争」という形で生-権力を行使し、グローバル秩序の維持・強化をはかろうとする〈帝国〉的主権を助けるべく、ハンチントンは「文明」概念を持ち出すことによって冷戦終結後曖昧になった敵-味方の図式を再び明確化し、我々を永続的な戦争状態に誘おうとしている、といったところでしょうか^^;

しかし、こうしたハンチントンの目論みは当の〈帝国〉的主権によって拒否されてしまいます。

「だが今回、ハンチントンのねらいは外れ、主権者は彼に背を向けた。ああ、主権者の気まぐれに振り回される枢密顧問官のみじめな運命よ!・・・・・・そのおもな理由は、なにも合衆国の政治指導者がハンチントン文明の衝突論という仮説/提案に含まれた人種差別的な意味に敏感だからではなく、文明という概念が彼らのグローバル戦略にとってあまりにも限定的だからだ」。

ネットワーク状に連関しながら「生政治的生産」を展開するマルチチュードを押さえ込み、搾取し続けるには、〈帝国〉的主権もまた、ネットワーク状の権力(=生-権力)をあらゆる境界を超えて構成し、反乱勢力を管理するための「環境」を社会的・経済的・政治的側面から創出しなければならないわけで、そのような場面において国民国家を文明に挿げ替えただけのような議論をするハンチントンは「くそ食らえ」というわけです(ボム)。

そして、ネグリ・ハートはそんなハンチントンに向かって次のように述べて、彼に「とどめ」をさします(笑)。

「この新世界においては、ハンチントンの想像の産物である文明とそれらを分かつ境界など、単なる障害物でしかない。主権者によって拒絶され、王宮から追放された熱意あふれる助言者の姿には哀れさが漂う」。

本当、読んでるこっちがびくびくするくらい無茶苦茶に切り捨ててますからね(一応、ハンチントンはご存命なんですけど・・・(苦笑))。


それにしても、やっぱり『マルチチュード』は面白いですね。2年生の頃最初に読み始めた時はちんぷんかんぷんでしたけど、最後の方まで読んでネグリ・ハートが言いたかったことが何となく分かって、それでフーコーアガンベンをそれなりに読んだ今また読んでみると、この本の「熱さ」が身に染みてきます。それに彼ら自身が序で述べているとおり、この本は他の「哲学書」に比べてかなり分かりやすいです(初めて読んだ時はあまり感じなかったんですけどね(j))。